2011年  3月11日  14:46  地震発生
三陸沖(牡鹿半島の東南東約130km付近)、北緯38度6分12秒、東経142度51分36秒の地点
震源の深さ : 約24km(暫定値)
地震の規模::モーメントマグニチュード (Mw) 9.0
気象庁マグニチュード (Mj): 8.4
最大震度 : 震度7(宮城県栗原市、計測震度6.67) 
    14:45  石巻港で10cmの引き波を観測。 
    14:46  大船渡港で20cmの引き波を観測。 
       地震発生 1・2・3号機運転自動停止
       4・5・6号機 運転停止中(定期点検中) 
    14:49  大津波警報 :岩手県3m 宮城県6m 福島県3m前後を予報。15:14  15:30 に10m以上に修正
    14:50   最大50cm程度の津波を東北地方の太平洋岸で観測 
  15:01  宮古港で第一波として1m42cmの津波を観測。 
    15:21  釜石港で4m10cmを観測。 
    15:26  岩手県宮古港 石巻市鮎川港で8m50cm以上記録 
      宮古市田老地区 37m90cm
岩手県野田村 37m80cm
宮城県女川町 34m70cm
大船渡市三陸町 30m10cm

 
    15:27  津波第一波 
    15:41  ディーゼル発電機故障停止 全電流喪失 
    15:46  オイルタンクが津波により流失
冷却水注入不能(16:36〜) 
    19:03  枝野幸男官房長官 記者会見
原子力緊急事態宣言 発令 
    19:30  自衛隊に対して原子力災害派遣命令発令 
    20:50  福島県対策本部から1号機の半径2kmの住民1,864人に避難指示が出された。 
    21:23  菅直人内閣総理大臣から1号機の半径3km以内の住民に避難命令、半径3kmから10km圏内の住民に対し屋内待機の指示が出た。 
      【お問い合わせ先】
 大熊町役場会津若松出張所 総務課
  電話 0242-26-3844(代表)
 大熊町役場いわき連絡事務所
  電話 0246-36-5671(代表)

双葉町役場 埼玉支所

〒347-0105 埼玉県加須市騎西598−1(旧埼玉県立騎西高校内)
電話:0480−73−6880(代表) FAX:0480−73−6926
Eメール:saitama@town.futaba.fukushima.jp

福島県内に避難されている方 3,266人
 ◆福島県外に避難されている方 3,780人
   うち関東圏内 2,897人
  (うち旧埼玉県立騎西高校) (673人)
 
浪江町役場二本松事務所
〒964-0904
福島県二本松市郭内一丁目196-1 男女共生センター内(地図
TEL:0243-62-0123(代表)
FAX:0243-22-4261(24時間受付)

富岡町災害対策本部
〒963−0115
福島県郡山市南二丁目52番地
(ビッグパレットふくしま内)
TEL:0120-33-6466 / FAX:024-946-1732
E-mail:tomioka.machi#gmail.com
(メールを送信する際は#の部分を@に変換してお願いします。)

    23:16  日本経済新聞は「経済産業省原子力安全・保安院によると、冷却水を注水するための非常用ディーゼル発電機が稼働せず、現在はバッテリーで動かしている」と報じた。
3月12日  0:49  東京電力は1号機の「原子炉格納容器圧力異常上昇」により、原子力災害対策特別措置法15条に基づく特定事象発生が発生したと判断。(1:20に通報) 
    3:50

海江田経産相は3時05分からの記者会見で、原子炉格納容器の破損を防ぐため、1号機に関してベント作業、すなわち格納容器内の蒸気の放出作業の実行を発表。 

    7:すぎ  菅直人首相が、ヘリで第1原発に降り立ち、1時間弱滞在し、職員らから状況の説明を受ける。 
    10:17  電源喪失状態の中手作業でベント作業が開始されたが、作業は難航。最終的にベテラン作業員1人の手により14時30分に弁の開放は成功し、格納容器の破損は免れたが、10分ほどの作業で人間が1年間に浴びても良いとされる放射線量の100倍以上に相当する106.3ミリシーベルト(約10万マイクロシーベルト)の放射線を浴び、作業員の男性は吐き気やだるさを訴え、病院に搬送された。 
    14:12  原子力安全・保安院は、福島第一原子力発電所の1号機周辺でセシウムが検出され、核燃料の一部が溶け出た可能性があると発表した。 
    15:29  敷地内モニタリングポストにて毎時1015.1マイクロシーベルトの放射線が観測される。このモニタリングポストは、飯舘村の方向にあった。なお、東京電力から公表されたのは、3桁小さい原発正門付近での線量(毎時5.5マイクロシーベルト、15時30分の値)であり、毎時1015.1マイクロシーベルトの値は公表が遅れた。 
    15:36  1号炉付近で水素爆発が発生。白い煙が確認され、東京電力社員2名、協力会社の社員2名が負傷した。なお、時間は前後するが、3時33分、2号機の非常用炉心冷却装置の原子炉隔離時冷却系(RCIC系)ポンプが作動していたことが確認された。 
    19:55  1号機の海水注入について内閣総理大臣が指示を出し、20時20分から1号機へ消火系からの海水注入が開始されたが、22時15分に発生した地震により、一時中断された。 
    21:まえ 枝野官房長官の記者会見では、15時36分の爆発について、冷却機能を失った原子炉内において燃料被覆管を構成するジルコニウムと水蒸気との高温下での反応を由来とした水素を含んだ蒸気が原子炉格納容器内から漏れ出し、建屋(たてや)内に充満して発生した水素爆発であり、原子炉格納容器の損傷もないという見解が発表された。 
  3月13日  1:23  12日22時15分から中断されていた1号機への海水の注入作業が、津波の恐れが去ったと判断されたため再開された。使用する海水には中性子を吸収し核分裂反応を抑える作用のあるホウ酸が添加されている 
    2:44 

3号機の非常用炉心冷却装置の高圧注水系が停止した。冷却水が沸騰して水位が下がり、4時15分から燃料棒が露出し始めた。5時10分に非常用炉心冷却装置の原子炉隔離時冷却系(RCIC系)による注水を試みるも起動しないため、東京電力は、同38分に「冷却装置注水不能」として原子力災害対策特別措置法15条に基づく通報を行った。12日に爆発が起きた同原発1号機と同様に、格納容器内の圧力が高まるため、東京電力は放射性物質が混じった蒸気を外部に放出する準備を進め、海水注入も検討した。

 
    8:41 

3号機の格納容器内の蒸気を排出し、内部の圧力を下げる弁を開けることに成功した。8時56分、放射線量の値が再び上昇し、制限値の0.5ミリシーベルト/時を超えたため、原子力災害対策特別措置法に基づく「緊急事態」の通報を行った。午前、福島県が合わせて22人の被曝を確認したと発表した。 

    午後  午前の記者会見で、枝野官房長官は、1号機の原子炉圧力容器内部が海水で満たされていると判断されると述べた。1号機の水位計は正確に計測できない状態となっているため、ポンプの能力どおりに海水が供給されていることから判断したという。また、3号機については、9時5分に安全弁を開いたことで原子炉圧力容器内部の圧力が低下し、9時8分に真水の注入を開始したと述べた。9時20分には格納容器の排気が開始され、9時25分にはホウ酸の混入が開始された。12時55分には、燃料棒の上部1.9メートルが冷却水から露出したため、海水注入に踏み切った。水位低下で核燃料が露出して溶融する恐れが出たため、13時12分から3号機の原子炉に海水の注入を始めた。 
    13:52  第一原発の周辺でこれまでで最も多い1.5575ミリシーベルト/時を観測したが、2時42分に0.1841ミリシーベルト/時に低下した。枝野官房長官は午後の記者会見で、「爆発的なことが万一生じても、避難している周辺の皆さんに影響を及ぼす状況は生じない」と述べた。しかし、1号機と3号機は依然として十分な水位が確保できず、燃料が露出した状態になっており、海水注入後も水位に大きな変化が見られない。 
  3月14日  1:10 

汲み上げ場所の海水が少なくなったため、1号機と3号機への海水の注水を停止した。7時50分、3号機の「冷却機能喪失」により、原子力災害対策特別措置法第15条に基づく特定事象の通報を行った。 

    11:01  3号機の建屋が爆発し、大量の煙が上がった。この煙は灰褐色で、1号機のものと比べるとより高くまで上がり、炎が上がる様子も見られた。枝野官房長官は1号機と同様の水素爆発であると発表。この爆発で建屋は骨組だけになり、作業をしていた東京電力と協力企業の作業員、および自衛隊員の合わせて11人が怪我をした。このうち重傷を負った東京電力の作業員1人は被曝した。
    13:25  それまで安定していた2号機でも原子炉内部に冷却水を送り込むことができなくなったため、「却機能喪失」として原子力災害対策特別措置法第15条に基づく特定事象の通報を行った。これにより2号機の原子炉の水位が下がったため、16時34分より海水の注水による冷却が開始された。
    19:45 

2号機の冷却水が大幅に減少し、燃料棒がすべて露出した。14日夕方より海水注入を行っていたが、ポンプの燃料が切れて注入できなくなっていた。東京電力は20時頃から再び海水注入を開始し、次第に水位は回復した。 

    21:37  福島第一原発の正門付近でこれまでの最高となる3.130ミリシーベルト/時の放射線を観測。22時7分、福島第一原発の10km南に設置されていた放射能のモニタリングポストで、通常の260倍にあたる9.6マイクロシーベルト/時の放射線量が観測された。 
    23:39  2号機の「原子炉格納容器圧力異常上昇」により、原子力災害対策特別措置法第15条に基づく特定事象の通報を行った。 
   3月15日  未明  菅首相、東京電力本社2階の対策本部へ乗り込み、学生時代の旧友教授の日比野靖さん、保安員、委員長とで東電に「海水を注入すべき」と言ったが、廃炉を恐れて海水注入を嫌がった。海水を注入すると1機40000億もする原子炉が使用不能になってしまう。そこで東電としては海水注入にとまどった。
少なくとも菅さんは日々野さんの証言から、冷却している間に海水注入を進言しようとして乗り込んだ。

「このままでは日本国滅亡だ」

「プラントを放棄した際は、原子炉や使用済み燃料が崩壊して放射能を発する物質が飛び散る。チェルノブイリの2倍3倍にもなり、どういうことになるのか皆さんもよく知っているはず」

「撤退したら東電は百パーセントつぶれる。逃げてみたって逃げ切れないぞ」

と迫ったのです。そして、菅前首相は東電の事故対応について

「目の前のことだけでなく、その先を見据えて当面の手を打て」

「無駄になってもいい。金がいくらかかってもいい。必要なら自衛隊でも警察でも動かす」

と、改善を求めた。

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       

一方で伐り、一方で植える。(2011年11月末、伐り倒された自生のアキグミの木と植林された桜の木に咲いたときならぬ花

足 尾 の 現 状

2011年3月11日、日本初の原発事故が不幸にして福島県で起こった。足尾の教訓が生かされることなく、起こったこのたびの事故、その結末はどうなるのか? 木を植えて覆い隠すようなことをしてはいけない。

 福島原発事故は、奇しくも足尾鉱毒事件の発端となった足尾銅山の払い下げ時の名義人に名を貸し、さらに共同経営者として名を連ねていた相馬藩領内で起こった事故である。
  もちろん、これは偶然であろうが、日本初の公害事件と、日本初の原発事故が、ともに相馬藩がらみなのは、ただの偶然と笑って済ませることはできないような気がする。なぜか、行く末を暗示しているように思えてならない。
  明治維新後の足尾の経緯を見まもりながら、福島のこれからを考えてみたい。

  江戸時代前期にピークを迎えていた足尾銅山は、幕末には廃山状態になっていたが、明治新政府は、日本のほとんどの鉱山を国有化し(もちろん無償で)、維新後に民間に払い下げ、国庫を潤したのである。
  足尾銅山を買ったのは、1875年(明治8年)に元相馬藩主を名義人として新潟県の草倉鉱山の払い下げに成功した古川市兵衛であった。ふたたび相馬藩の名を利用して1877年(明治10年)に足尾銅山を手にいれる。
  足尾銅山を手に入れた古川市兵衛は、相馬家の家令の志賀直道(志賀直哉の祖父)を共同経営者とし、財界のトップである渋沢栄一も巻き込み、本格的な鉱山経営に力を注ぐのであった。だが、当初はまったく成果があがらなかった。
  1881年(明治14年)、20代半ばの甥の木村長兵衛を坑長に抜擢、待望の大鉱脈を発見し、またたくまに日本一の銅山へと発展していくのであった。

1885年  明治18年  渡良瀬川の魚が大量に死んで浮き始める。鉱毒ではないかと住民のあいだに不安が広がる。 
10月31日、下野新聞が前年ごろから足尾を木が枯れ初めていると報じた。足尾銅山とのむすびつきを報じた。
1890年  明治23年  利根川、渡良瀬川、鬼怒川、大洪水。坂川堤防決壊。渡良瀬川から流れて鉱毒により沿岸一帯が不毛状態になる。
被害を受けた各町村が栃木県、農商務省に鉱毒調査を依頼。しかし、古川と農商務省は日清戦争による挙国一致体制を利用し、選鉱機の新設を公害防止設備の設置と偽って示談交渉をすすめた。 
1892年  明治25年  古在由直らにより鉱毒の主成分は銅の化合物、亜酸化鉄、硫酸であると発表。 
1893年  明治26年  当時最新のベッセマー式製錬を導入したのを機に、後に「東洋一の大銅山」と称される礎を造った。 
1894年  明治27年  渡良瀬川大洪水。 
1896年  明治29年  利根川大洪水。茨城県沿岸全域水没。中川以東、江戸川以西、総武線以北、大きな湖沼となる。
被害は年々拡大の一途をたどり、銅山による山林の乱伐と煙害によって水源が禿山とされたことによって生じた渡良瀬川大洪水は、栃木・群馬・埼玉・茨城・千葉および東京の一府五県の耕地数万町歩を一挙に不毛の地と化した。被害民は政府に対し、足尾鉱業停止・鉱毒地減租・堤防政策などの請願を次々と行うとともに、被害激甚地の中心にある藤岡町雲竜寺に足尾銅山鉱業停止事務所を設置した。 
1897年  明治30年  被害民は大挙上京し、鉱業停止を政府に請願する「押し出し」を二度にわたり決行。一大社会問題となった。政府は第一次鉱毒調査会を設置、古河に37項目の鉱毒予防工事命令を下すとともに鉱毒被害民に地租の減免だけを行った。 
1898年  明治31年  9月、渡良瀬川、利根川、鬼怒川大洪水。東京都被害受ける。
2月、9月と二度にわたって「押し出し」を行うが効果なし。 
1900年  明治33年 

川俣事件
2月、農民らはひそかに会合を開き、次回の押出しの段取りを決めた。前回説得する側に回った田中正造も、今度は説得することはなく、押出し決行日に合わせて国会で質問することにした。警察に知られるのを防ぐため、決行日は極秘とされ、準備する物だけが農民から農民に口伝で伝えられた。しかし実際は、集会などに警察が探りをいれており、決行日以外の詳細は警察側も知っていた。

2月12日午後11時ごろ、雲龍寺の鐘が途切れることなく連続して打ち鳴らされた。これを合図に、周辺町村の寺も鐘を連続して打ち始めた。その音を聞いて、さらに遠方の寺も鐘を打ち始めた。この合図は、20里(約80キロメートル)は伝わったという。警官に制止された寺もあったが、隣村の別の寺が鐘を打ち続けるため、制止は無駄であった。この合図の仕方は第3回押出しとほぼ同じである。

2月13日午前1時、700から800人の農民が雲龍寺に集結していた。警官は解散を命じたが、農民らは応じなかった。農民らによれば、土足で本堂に上がりこむなど、警官側が乱暴をはたらいたとしている。

同日、朝から、雲龍寺に農民が集結した。その数は不明であるが、鉱毒事務所の発表では1万2000。しかし、このときの人数は警察発表の2500人のほうがより確かだと考える研究者は多い。9時に一行は雲龍寺そばにあった渡良瀬川を渡り、館林町に向かった。群馬県警察部は約50名で監視していたが、一行はこれを突破した。

直後、渡良瀬川右岸の農民らと合流。前述の1万2000という数は、途中で合流した農民を含む数と考える研究者もいる。

館林町入口には10名ほどの警官がいたが一行はこれを突破。途中、11時ごろに館林警察署前で数名が拘引されそうになり、負傷者が出た。警察側は、農民のうち1名が馬で警察署に乗り入れたのが原因としているが、当人は馬ごと拘引されそうになったと証言している。いずれにしても、ここでどのようなやりとりがあったのか詳細は不明である。裁判終結後の農民の言及には、農民側が先に警察署敷地に石を投げ込んだというものもある。

小競り合いのあと、正午すぎに農民らは川俣にある浮き船橋に向かった。当時、利根川にはほとんど橋がかかっておらず、川を渡れる場所は実質的に川俣しかなかった。しかし、邑楽用水から利根川までの間には警官隊が5重の防衛ラインを張って待っていたため、農民らは船を運んでいる者たちを先導にして先を進んだ。前々回の反省から、この回の押出しでは、橋が外されたときに備えて農民らはあらかじめ船を用意していた。

警官隊は解散命令を発した直後に農民らに殴りかかり、先導の船を運んでいた農民らを相次いで逮捕、拘束した(農民らの証言による)。ただし、先頭の船を運んでいた被告農民の中には、停止命令は聞こえなかったと裁判で主張した者もいる。農民らは川俣にある真如寺に連行され、ここで手当てを受けた。川俣の農民は大多数が農民に同情的であり、ほかにも手当て、看護をした者は多くいたという。この日逮捕された農民は約50名。警察が首謀者、リーダーと目していた人物らは、14、15日に相次いで逮捕され、逮捕者の数は67名となった。

この時点で農民は総崩れとなり、散り散りになった。ルートは不明だが、東京までたどり着いたものも数十名から数百名はいたとみられるが、その後の請願は行われなかった。 

1901年  明治34  12月10日、議員辞職した田中正造、天皇に直訴するも取り押さえられる。直訴状は幸徳秋水が書いた。
直訴前、妻カツに迷惑がかからないよう離縁状を送っている。
直訴の報を伝え聞いた盛岡中学生の石川啄木が、「夕川に葦は枯れたり血にまどふ民の叫びのなど悲しきや」と三十一文字にその思いを託した。
12月、足尾銅山側と交渉が行われ、残留村民24名(24家族)全員が、全村を銅山側に4万円で売却し一年以内に移転することで合意が成立した。救済会が仲介を行ったのは、松木の荒廃が鉱毒被害であるというように銅山側が事実上認めたためであるとされている。
松木の不動産の所有権移転登記が行われたが、村民の星野金治郎は別の用があり、当日、登記に参加できなかった。これに対し、銅山側は登記日が同一ではないと困ると苦情を申し立てた。これに対し星野は激怒。移転登記は行わず、死ぬまで絶対に松木から出ないと宣言した。星野とその息子の2名を除く残留村民23名は、足尾鉱毒被害救済会に感謝状を贈り、村を出た。なお、星野以外の不動産所有権移転登記は主に1901年12月27日に行われ、1902年1月までに完了した。 
1902年  明治35年  県と国は鉱毒水を沈殿させ、東京都などへの拡散を防ぐため、渡良瀬川下流に貯水池をつくる計画浮上。建設予定地の埼玉県川辺村、利島村の反対運動に田中正造も参加。計画白紙。 
松木村は、精錬所からの煙害に苦しめられ、約270人の住民は、移転を余儀なくされた(移転登記が終了した)。
1903年  明治36年  栃木県下都賀郡谷中村に貯水池をつくる案浮上。 
1904年  明治37年  7月 田中正造 実質的に谷中村に住むようになる。
栃木県は秘密会で谷中村買収を決議。貯水池にするための工事が始まった。 
1906年  明治39年  谷中村議会は藤岡町との合併を拒否するが、県は合併した発表。谷中村は強制廃村となる。田中正造なおも住み続ける。
1907年  明治40年 

政府は土地収用法の適用を発表。
「村に残れば犯罪者となり逮捕される」と圧力をかけ、多くの村民が村外に出たが、田中は強制破壊当日まで谷中村に住み続けて抵抗した。結局この土地が正造の終の棲家となる。 

1908年  明治41年  政府は谷中村全域を河川地域に指定。 
1910年  明治43年  5月、7月、8月 利根川等各地で洪水。甚大な被害。 
1911年  明治44年 

旧谷中村村民の北海道常呂郡サロマベツ原野への移住が開始された。
4月3日 瀬下六右衛門さんを団長に66戸がこの地に移住した。拠りどころとして故郷宇都宮市二荒神社より大物主命事代主命三穂姫命の御祭神を移し同年六月十五日この地を栃木神社とした。

     
   
     
     
     
1913年  大正2年  8月2日 足利郡吾妻村下羽田(現・佐野市下羽田町)の支援者・庭田清四郎宅で倒れ、9月4日に死去。
財産はすべて鉱毒反対運動などに使い果たし、死去したときは無一文だったという。死亡時の全財産は信玄袋1つで、中身は書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけであった。なお、病死前の1月22日に、小中の邸宅と田畑は地元の仮称旗川村小中農教会(現・小中農教倶楽部)に寄付していた。邸宅は現在、小中農教倶楽部が管理している。 
1960年  昭和35年 

足尾町に防砂ダムの足尾ダム(通称、三沢合流ダム)が作られた。容積500万立方メートルで、利根川水系の防砂ダムとしては最大。また、日本でも最大級の防砂ダムだとされる。2003年現在の堆砂率は67%。 

1971年  昭和46年  4月21日 栃木地区13戸の農家が集まり、栃木県知事と県議会議長宛に3回目の帰県請願書を提出。 
1973年  昭和48年  足尾銅山は廃坑になった。 

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福島のたどる道?

足尾鉱毒事件は、日本初の公害事件であった。山の草木は枯れ、鉱毒は渡良瀬川に流れて栃木、茨城、埼玉、千葉、東京の人々を蝕み続けた。100年以上経ったいまもなお、蝕み続けている。山を元に戻そうと木を植えて緑の山にしようという動きがあるが、それで問題が解決したことになるのだろうか?

足尾のたどった道