大正時代の千屋の牛市の様子を撮影したものだそうです。昭和35年11月18日、井伏鱒二は『小説新潮』の連載の取材で千屋の牛市を訪れている。以下に抜粋してみます。(注)旧仮名遣いは現代仮名に改めました。
《岡山県の千屋村は、県の西北端にあって島根県(鳥取県の間違い:藤原訂正)との県境に接している。この村では毎年、七月と十一月に牛市が立つ。いわゆる竹の谷牛という優良種の系統のものを出す牛市だとされている。
−中略−
千屋では(その近隣の村も同様に)早春から十一月にかけて、牛を山に放しきりにして飼っている。牛が塩分を求めて家に帰って来ると、塩か味噌をなめさせてまた山へ追いやるが、たいていは飼主が山へ出かけて塩分を与えている。千屋の人たちは、牛の姿や顔を見て、あの牛はどこの家の牛だと見分けをつけている。飼主が「うちの牛を見なんだか」と聞くと、学校通いの子どもでも、どこそこで見たと答えている。
−中略−
(千屋のある)新見市は、明治維新前には一万八千石の関という殿様の城下町であった。渓流沿いのこぢんまりした町で、良いことをしても悪いことしても、すぐに町ぢゅうに知れ渡るようなところである。人気はおっとりしているが、どちらを向いても山ばかりだから町としての発展は望めそうもない。大して高くはないが急勾配の山が、ぐるりに間近く迫っている。市の観光課の人が云うのに、西側の山には熊がいる、北側の山には猪がいて山畑を荒らし、農家の人は手をやいている。
−中略−
千屋にはいる手前に、道の脇で石灰岩を切り出しているところがある。これはセメントの原料にするのではなくて、歯磨粉の原料にするのだと観光課の人が云った。やがて、千屋村に入ると、ここだけ左右の山が急に後ずさりして擂鉢のような地形になっている。人家も見え、道のわきに稲株を残した田圃もあるが、この村では到るところに栗材の垣を立てめぐらしている。道のわきにも、川端の田圃のまわりにも、人家のまわりにも垣を設けている。ここでは野放しにされた牛が、山でも道路でも自由に歩きまわるので、柵がないと牛が田畑に入って作物を荒らし、人家の庭に乾した大豆でも麦でも食べてしまう。ときには、縁側にあるメリケン粉を入れた笊をひっくり返して、牛の眼に粉が入って騒ぎになることもある。「ここでは、牛が田圃に入ったら、入られた方が悪いことになっています」と市長さんが云った。「ご覧の通り、家のまわりの垣にも木戸をつけています。人の家を訪ねた者は、垣のなかに入ると、木戸口を閉めておかなくちゃならない規則です」
 ここでは昔から牛を大事にして、ことに昔は内厩(うちまや)と云って家のなかに厩を取り入れていた。内厩は九尺厩と云って、九尺四方の広さに区切り、そんな内厩を三つづつ土間の内側に並べていた。
−中略−
(太田)龍五郎という人は竹の谷牛とい最優良種の牛を買い取って、貧乏な百姓には無償貸付で飼わせて産めよ殖やせよと努めていた。当時、竹の谷牛は世人の驚異の的になっていた種類の牛である。よそから来る博労たちは、この牛を見ると喉をごくりと鳴らしたそうだ。
 記録で見ると、これは天保元年、地方屈指の富豪であった竹の谷の難波という人が、偶然のことから飴色の見事な牝牛えを手に入れた。この牝から一疋の子牛が生まれ、これもまた優秀で、四歳で四尺二寸余りになった。次にまた牝が生まれ、次に牝の子牛が生まれた。これを四歳まで育てて種牛にして交配に苦心した。すなわち、初代と初代を掛け合わせ、それに生まれた子牛を交互に掛け合わせて二つの系統を得て、その二つの系統を交互に掛け合わせて近親繁殖体を固定化させた。これを竹の谷牛と名づけて、生まれた子牛を付近の家に飼わせて種類の散逸を防いでいた。「この交配の方法は、日本にはそれまでなかったものです」と技師の人が云った。
−中略−
 千屋牛は放牧で育てるので、爪が猪のそれのように固く立って、毛は繊細で密生し、皮膚をつまむと弾力がある。眼は大きく、活力があって、温和な相とよく調和する。額が広く、ゆったりとして、眉目秀麗である。のっぺりとした感じの美貌でなくて、品位がある。顎と胸垂は幾分か大きく、胸は幅広くて広潤たる感じである。背線は、よく最近の書家や木彫家がここに目をつけているように平直である。腰はどっしりとして、やや腰骨が高めについている。だから、役牛として水田を鋤かせるとき、ぬかるみのなかで高く後脚をあげて歩くことができる。後脚の発育が良好である点は、特に他の種類の牛と異なっているところである。性格は温和であり、活発であり、繁殖力が強く、遺伝力も非常に強い。竹の谷牛は長命で連産性であって、二十三歳まで生きる能力がある。全身が白毛になって、失明するまで生きているのがある。 》

 引用はここで終わる。その後にも、よく取材をした文章が続くが紙面のつごうじょう、ここまでにする。
 私の母方の父、すなわち祖父は竹の谷の入り口で博労をしていた。父方の親も博労だった。そんな縁で両親は結ばれたものと思われるが、小さいころから私は博労のしりについて歩いていた。というか、連れて歩かれていたといったほうが正しい。したがって、いま井伏鱒二の文章を読みながら、私は竹の谷牛の血を引いた千屋牛の姿形を思い浮かべることができる。もちろん、それだけ井伏鱒二の取材力が優れているということだろう。
 実は、“かべ”と呼ばれる柵が取り払われはじめたころから、千屋牛は松阪牛や神戸牛に追いつけ追い越せと改良が重ねられ、いまや、もうあの雄姿を見ることはできない。
 健康的でおとなしくて、よく働いた千屋牛は、いまは筋肉に脂肪がめり込む不健康な牛になり、働くこともなくブロイラーのように太らされて、「やわらか〜い」と女性レポーター、ちかごろでは男性レポーターでさえ表現する歪な肉牛へと転落してしまっている。そのことを惜しむ人はいまや誰もいない。
「高く売れるんだから、それでいいではないか。よけになことを言うな」
 おそらく、そんなお叱りうけるだろう。
 しかし、あえて言っておかなければならない。人間だったら即入院の千屋牛など、私は見たくない。

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