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井上 ひさしの作品にみる故郷

 井上ひさし 作品リスト
  
  小説・童話

  随筆

井上 ひさし(いのうえ ひさし)プロフィール
  1934年(昭和9年)11月17日~2010年(平成22年)4月9日。 日本の小説家、劇作家、放送作家。文化功労者、日本芸術院会員。本名は井上 廈(いのうえ ひさし)。結婚していたころは内山好子さんの姓を名乗り内山 廈だった。山形県東置賜郡小松町(現川西町)に生まれる。
  上智大学外国語学部フランス語科卒業。在学中から台本を手がけ、放送作家として執筆活動をスタートする。64年には、NHKの連続人形劇『ひょっこりひょうたん島』(共作)の台本を執筆。その後、戯曲、小説、エッセイの分野にも活動の場を広げ、直木賞をはじめ、讀賣文学賞、吉川英治文学賞、谷崎潤一郎賞、菊池寛賞、など数多くの賞を受賞。主な戯曲に『日本人のへそ』『頭痛肩こり樋口一葉』『父と暮せば』『人間合格』など。ベストセラーには小説『ブンとフン』『青葉繁れる』『吉里吉里人』『四千万歩の男』『東京セブンローズ』、また『私家版日本語文法』『コメの話』『本の運命』『井上ひさしの子どもにつたえる日本国憲法』などもある。
  こまつ座旗揚げは84年、多くの戯曲を書き下ろして旧作とあわせて上演。新国立劇場にも『紙屋町さくらホテル』他を書下ろす。戯曲『化粧』『藪原検校』『父と暮せば』などは海外公演でも高い評価を得ている。01年には「知的で民衆的な現代史を総合する創作活動」で朝日賞を受賞。04年、文化功労者に選ばれる。09年日本放送協会放送文化賞。恩賜賞日本芸術院賞を受賞。09年『ムサシ』『組曲虐殺』を書き下ろして上演。10年「長年にわたり演劇界に多大な貢献をしてきた」ことにより読売演劇大賞 芸術栄誉賞を受賞。同年故郷山形県より山形県県民栄誉賞受賞。
 2010年4月9日永眠(75歳)。                               <NPO法人遅筆堂文庫プロジェクトのホームページより>

5月31日

井上ひさしと矢切     <井上ひさしが住んでいたのは千葉県市川市北国分だった。東京に出るには、現在の北総線矢切駅のあるバス通りまで歩いていた。松戸駅~市川駅とを結ぶバスの停留所は「栗山坂下」だった。>

「なにしろ丘の下を流れる江戸川をひとつ越せば東京だ。この丘陵は住宅地として評価されはじめた。丘だから水はけがよい。景色も絶佳だ。閑静でもある。開墾し残した林が風趣を添えている………農地としては役に立たなかった条件が住宅地としてはこの上ない好条件となったわけだ。わしのいまの主人は貧乏な農民からあッという間に地主に早がわりしてしまった。おまけに主人は愚図だが、おかみさんはすこしばかり目はしがきいた。それッとばかり主人の尻をた叩いて、仲間が置きざりにしていった土地を買い占めた」
「なーる」
「いまこのあたりの土地は坪三十万円もする。二十年前の一町歩三百五十円は夢のようなはなしさ。ドン松五郎君、きみの主人の買い求めた建売住宅も、もとはここの主人の大根畑だったところだよ」
                                    ・・・・・・・・・・・『ドン松五郎の生活』( 新潮社 1975年 のち文庫)より  

井上ひさし邸の柿木

 井上ひさしが暮らしていた家は現在、ある会社の持ち物になっているが、おそらく当時のままだろうと思われる柿木が一本残されていた。会社が植えるはずがないだろうから、おそらく井上本人が望んで植えたものだろうと考えられる。子どもたちが大きくなったときに食べさせようと思っていたのか、自分で食べようと思っていたのか、いずれにしても一本の柿木には、井上の思いが込められていたにちがいない。そのことを裏づけるために、以下に水上勉の文章を引用する。

グミのことを書く。子供の頃から好きだった。若狭の生家の庭の隅に巨大な一と株があって、六月はじめになると朱実が鈴なりになった。枝が地を這うほどたわんだ。若狭は果樹の少ない国で、柿、蜜柑、杏、梅あたりがどの家のまわりにもあったが、私の生家はせまい借地だったので、蜜柑も梅もなく、ただ一本のグミだけが、子供の頃の楽しみだった。
   ・・・・略・・・・・ 
 私はこの生家を十歳の時に捨てて京都へ出て、ながい放浪の末、東京に住んでいるが、大きくなって、一軒の家がもてたら、庭の隅にグミを植えて、たらふくたべたいものだと念願してきた。誰にも遠慮せずに、自分のグミを所有して腹をこわすほど食べてみたい。夢だった。
   ・・・・・略・・・・・
 赤い実は、肌にまだらの点をうかべ、何ともいえぬおいしそうな野趣にとんだ色なので、眺めていても、つばが出るほどである。私は十歳の時に分かれたあの生家のグミが、ここに再現していることに感動をおぼえ、日の暮れるまで、子とグミのまわりをうろうろした。
                          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・水上 勉『わが草木記』東京のグミ(光風社書店 1975年)より

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現在は企業の持ち物になっている、かつての井上ひさし邸。家を手放すことなど考えてはいなかったはずだ。いまも残る柿木がそのことを物語っていた。

左は井上ひさしが住んでいた市川市国分の家。上の写真は井上ひさしが乗り降りしていた松戸駅~市川駅を結ぶ京成バスのバス停。現在、画面左には北総線矢切駅がある。

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<児童養護施設に入れられていたが、井上ひさしは勉強はできた。当時、宮城県下一といわれていた県立仙台第一高等学校に合格する。そのころのことを書いたのが『青葉繁れる』(1973年 文藝春秋社 刊)だ。仙台一校を卒業するまで児童養護施設で暮らした。1953年4月、上智大学文学部ドイツ文学科に入学。東京へ出る。念願の孤児院脱出だ。ところが、大学を一年の途中で休学し、母のもとへと逃げるように帰ってしまうのだった。>


  ひさしは、代々木上原のラ・サール会修道院から大学へ通い始めるが、四か月ほどで挫折してしまう。自筆年譜には<ドイツ語がちっともおもしろくなくて閉口した>と書かれている。『井上ひさしの宇宙』では、インタビューに応えて、もっと厳しい状況が述べられている。
<その上智の独文科というのが凄かった。ドイツ人の神父さんが、はじめからしまいまで、ドイツ語だけで喋る。それが初級ドイツ語文法の時間、次の時間はべつの神父さんがやってきてドイツ語でドドドッと喋って、それがドイツ哲学史入門(笑)。程度が高くてとても付いて行けない。あとで聞くと、そうやってドイツ語のシャワーに漬かって、それなりに予習復習をしていれば、二年目ぐらいから、ふっとドイツ語が解るようになるそうです。でも、とにかく付いて行けない。意気消沈。半ばノイローゼになって、夏休みに母のいる三陸海岸の釜石に帰省しました。そこからまた人生の軌跡が変わります>

 ・・・・・・・・・・ 略 ・・・・・・・・・・

<こうしてぼくは枯れ木人間かカトリックの聖人か区別のできない状態で母親の住む岩手県の港町へ帰省した、言うまでもなく脂汗たらたら動悸どきどき指先じんじん、そして手足を冷たくしながら恐怖の東北本線下り鈍行に揺られて>

                ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上、桐原良光著『井上ひさし伝』(2001年6月 白水社 刊)より

<当時、母は釜石で焼鳥屋の屋台を経営していた。そこに転がり込んだ、ひさしは国立釜石療養所の庶務係の職を得て働く。昼間は療養所で働き、夜は母親の屋台を手伝って2年ほど働き、15万円以上の金を貯めて、ふたたび上京すると上智大学へ復学するのだった。こんどはドイツ語ではなくフランス語を専攻する。同時に浅草フランス座の文芸部員になる。やがてNHKテレビの連続人形劇『ひょっこりひょうたん島』の台本書きへとつながっていくのであった。>

  ここで話は大戦争の余燼がまだあちこちでくすぶっていた昭和二十四年ごろへ飛びます。そのころわたしは、岩手県一関市の、母親の経営する井上組の飯場に住んでいました。井上組と恰好はつけても、従業員二十人前後の、大林組の孫請けのそのまた孫請けといった式のちっぽけな組でした。
  飯場の賄い方は「以前、上海で憲兵をしていたころ中国人の共産党員を十何人も捕まえたことがある」と豪語する初老の男で、なにかというとわたしをつかまえて、そのときの様子を語ってくれました。「また、じいさんのホラ話が始まったよ」と、だれも相手にしてくれないので、中学生のわたしを専属の聞き手に選んだようです。
  飯場の男たちはみんな渡り者で気が荒く、ほかの組としょっちゅう喧嘩をしていました。そこで喧嘩の手をいろいろ教わりました。給料日になると男たちは札束を掴んで赤やピンクの電球がチカチカまたたくお店へ繰り込み、帰ってくると相方の女の自慢話に花を咲かせていました。彼らから、男と女が二人きりになるとなにをするかを図解入りで教わりもしました。そんなわけで飯場暮らしをおもしろがっていたのですが、母親はそうではなかった。「これ以上、飯場へ置いておくと、息子がぐれてしまう」と思い詰めて、近くのカトリック教会へ相談に行きました。わたしが「ぐれるのにはうんと度胸と勇気がいるんだよ。ぼくはそのどっちもないから、ぐれたくてもぐれることができないんだ」と止めてもむだでした。
  そのときに母親の訴えを聞いてくださったのが、一関カトリック教会の主任司祭をつとめていたマルタン・マリー・ヴェイエットというカナダ人神父でした。この神父が聖ドミニコ会の会員だったのです。
「仙台の郊外に寄宿舎のような施設があります。そんなに息子さんが心配なら、そこへ入れてはいかがですか」
「掛かりはどれぐらいでしょうか」
千円でもいいし、五千円でもいい。都合がつかなければお金は払わなくてもかまいません。ある修道会が採算を度外視して経営していますから、お金を払わなくてもつぶれたりはしないのです」
  母親は月二千円で話を決め、さっそくわたしを神父のステーションワゴンに押し込んで仙台へ発たせました。母親は、イギリスやスイスなどにある、上流階級の子弟が行く寄宿学校(ボーディングスクール)と思い込んだらしいのです。その寄宿学校が月二千円とは安い、神父の気が変わらぬうちに子どもを送り込んでしまえていうことになったわけですが、じつはそこはラ・サール男子修道会が経営する児童養護施設でした。

<こうして井上ひさしは、中学三年の二学期から仙台の養護施設に入れられ、高校卒業までの三年半ほどを孤児院で過ごすことになる>

  汽車を降りたのはふたりだけだった。
  シャツの襟が汗で汚れるのを防ぐためだろう、頸から手拭いを垂らした年輩の駅員が柱に凭(もた)れて改札口の番をしていた。その駅員の手に押しつけるようにして切符を二枚渡し、待合室をほんの四、五歩で横切ってぼくは外へ出た。すぐ目の前を、荷車を曳いた老馬が尻尾で蠅を追いながら通り過ぎ、馬糞のまじった土埃りと汗で湿った革馬具の饐(す)えた匂いを置いていった。
  土埃りと革馬具の饐えた匂いを深々と吸い込んでいると、弟が追いついてきて横に並んだ。弟は口を尖らせていた。ぼくがひとりでさっさと改札口を通り抜けたことが、自分が置いてきぼりをされたことが不満なのだろう。
「思い切り息をしてごらんよ」
  弟にぼくは言った。
「空気が馬くさいだろう。これがぼくらの生まれたところの匂いなんだ」
  弟はボストンバッグを地面におろし、顔をあげて深く息を吸い込んだ。
「どうだ、この匂いを憶えているだろう?」
「ぜんぜん」
  孤児院のカナダ人修道士がよくやるように弟は肩を竦(すく)めてみせた。
  弟がこの町を出たときはまだ小さかった。この匂いが記憶にないのは当然かもしれない。でもぼくにはこの馬の匂いと生まれ故郷の町とを切り離して考えることは出来なかった。町は米作で成り立っていた。冬、雪に覆われた田に堆肥を運ぶのも、春、雪の下から顕れた田の黒土を耕すのも、夏、重い鉄の爪を引いて田の草を除くのも、そして秋、稲束を納屋まで運ぶのも、みんな馬の仕事だった。ぼくが此処を離れたのは三年前の春だったが、そのとき町にあった自動車は十数台の乗合バスと、それとほぼ同数のトラックだけで、運搬の仕事もそのほとんどを馬たちが引き受けていた。とくに冬季は深い雪のために自動車はものの役に立たず、そのときの町は橇を曳いた馬たちの天下になった。そんなわけで馬糞と革馬具の匂いはこの町そのものなのだ。ぼくはもういちど馬くさい空気を胸いっぱい吸い込んだ。
  ぼくと弟を乗せてきた汽車が背後で発車の汽笛を鳴らした。駅前の桜並木で鳴いてた蝉たちが汽笛に愕(おどろ)いてすこしの間黙り込んだ。汽笛にうながされて、ぼくは並木の下の日蔭を拾いながら歩き始めた。
  薬売りの行商人や馬商人たちの泊まる食堂を兼ねた旅館、本棚にだいぶ隙間のある書店、昼はラーメン屋だがあたりが黄昏れてくると軒に赤提灯をさげる二足草鞋の店、海から遠いのでいつも干魚ばかり並べている魚屋、農耕機具と肥料を扱う一方で生命保険会社の出張所もつとめている店、軒先の縁台で氷水を食べさせる菓子屋など街並みは三年前とほとんど変わっていない。真夏の午後の炎暑を避けて桜並木の通りには人影もなかった。四周を山で囲まれているために暑気の抜ける隙間がなく、北国なのにこの町の夏は妙に蒸し暑いのである。

  ・・・・・・・・・・・ 略 ・・・・・・・・・

「故郷を後にしてから早いもので三年たちました。驚かないでください。ぼくと弟はいま孤児院にいます」
  たしかこんな書き出しだった。これに続けてぼくはたぶん次のように書いたはずだ。
「ぼくらが孤児院に入ったわけは、母の商売がうまく行かないからです。母は、男と同じように女にも意地というものがある、たとえどんなに辛くても、祖母(ばっちゃ)に泣きついてくれるな、手紙を出すのもいけないよ、と言っています。でも、ぼくらはつくづく孤児院にいるのに疲れました。かと言って母のところへは帰れません。母は旅館の住込みの女中さんをしているのです。祖母、突然のお願いですみませんが、ぼくらを祖母のところへ置いてくれませんか」
  夏休みの間だけでいい、と書かなかったのは、ひょっとしたら祖母がぼくらを夏休みの間だけでなくずっと孤児院から引き取ってくれるかもしれないという期待があったからだ。

 ・・・・・・・・・・ 略 ・・・・・・・・・・

「ばっちゃのところは薬屋さんなんだよ。腹痛の薬は山ほどある。だからお腹の痛くなるほどたべてごらん」
  弟はその通りにした。そしてお腹が痛くなって仏間の隣りの座敷に横になった。祖母は弟に蚊帳をかぶせ、吊手を四隅の鉤に掛けていった。ぼくは蚊帳をひろげるのを手伝った。蚊帳の、ナフタリンと線香と蚊やりの混ったような匂いを嗅いだとき、ぼくは不意に、ああ、これは孤児院にない匂いだ、これが家庭の匂いだったのだな、と思ったときから、夕方以来の妙にいらついていた気分が消え失せて、どこか知らないがおさまるところへ気持ちが無事におさまったという感じがした。
  前の川の河鹿の啼き声がふと跡切れた。夜突(よづ)きに出ている子どもがいるらしい。簎(やす)で眠っている魚を突いて獲るのだ。河鹿と申し合わせでもしたように、すぐ後を引き継いでドンドコドンドコと太鼓の音が聞こえてきた。途中のどこかで風の渡るところがあるのか、太鼓の音はときどき震えたり弱くなったりしていた。
  ぼくは座敷の隅の机の前にどっかりと坐ってトランクを縛っていた細紐をほどいた。持ってきた本を机に並べ、座敷を自分の部屋らしくしようと思ったのだ。

<なんとか孤児院を脱出したいとの、ぼくの目論見は、不義理をして家を出た嫁の子というので、かなえられなかった。ばっちゃの家の気まずい雰囲気を察知したぼくは、一晩だけ泊まり、家人が起き出す前に駅へ向かうのだった。そのとき、赤松の幹に留まっていたいた透明な羽の大きな蝉の鳴き声を聞いた。兄弟の会話を引用する。井上ひさしらしさが感じられる部分だ。「エゾ蝉。とんまな蝉さ」 「とんま?どうして?」 「いきなり大声を出すとびっくりして飛び出す。そこまではいいけど、さかさまにとまっているから、地面に衝突してしまうんだ」 「………それで?」 「脳震盪を起こして気絶しているところを捕まえる。それだけのことさ。ぼくなんか前にずいぶん捕えたな。おまえにもずいぶん呉れてやったじゃないか」>

帰りたい:私だけのふるさと 井上ひさしさん      (2008年5月8日 毎日新聞夕刊)より

  明治11年にイザベラ・バードという英国の女性旅行家が置賜(おきたま)地方を旅して、「東洋のアルカディア(理想郷)」と呼んだこと。広々と広がる田んぼの中にポツンポツンと農家があって、その農家の周りに風よけの小さな林があり、前庭に牛や馬がいて……。
 私が生まれた小松町中小松は、そんな風景に囲まれた宿場町でした。井上酒造という元禄時代から続く酒屋があって、井上姓がやたらに多い(笑い)。樽平という清酒の醸造元が本家、次男坊が分家して呉服屋、呉服屋の次男坊が薬屋……という具合で、私の祖父は薬局をしてました。
  跡継ぎの父は、東京の薬学の学校に進学する。民本主義全盛の大正の中ごろのことです。映画やレコードがはやり始めたころで、父はそれにかぶれた。帰ってくると、やはり東京から帰郷してきた人たちと一緒に、小学校の同級生を集めてレコードコンサートや映画会を開いてました。会場は、小松座という小さな劇場。3、4歳のころ、父と一緒に映画を見たのを覚えています。  
  人のためというより、自分たちが一緒に楽しみたかったんでしょう。住んでいるところをよくしよう、文化の質を高めよう、おもしろいことをみんなでやろうという連帯の機運が、雪深い地方にも活発にあったんですね。
  父は劇団もつくった。実は、劇団は表向きで、非合法の農民解放運動の組織です。父も地主の子なのに「貪欲(どんよく)な地主を倒せ!」とかガリ版を切る。謄写版を解体し、農機具小屋に隠していた、なんて話を母に聞きました。思いあまった祖父は父を3度も警察に突き出しています。私が五つの時、父は体を悪くして亡くなりました。
  戦争が始まると、友だちの父さんや兄さんが出征して次々いなくなった。僕らは田植え、雑草取り、稲刈り、脱穀と、泊まり込みで農家へ手伝いにいった。今考えるとあれで体が鍛えられ、稲作に愛着もわいた。
  私が今やっていることは、父がしていたことの繰り返しなんですね。東京の良質な芝居が古里でも見られるといいな、というのが「こまつ座」結成の動機だったし、町に蔵書を寄贈したのも同じ。もう20万冊以上になって8月に山形市に分館ができます。「もうかったのは自分一人の力じゃない。周りのおかげだ」と、山形市のシベールというパン菓子の店の社長さんが、住民のために図書館と劇場を建設中です。
  地域社会と自分の暮らしや仕事を深く結びつけて考える。山形に限らず、ふるさとにはそういう人たちがまだいるんですね。田舎も捨てたものじゃない、と思います。<聞き手・太田阿利佐/え・須飼秀和/写真・長谷川直亮>

  山形県小松町立小松中学校から岩手県立一関中学校に転校した井上ひさしは、夏休みが終わった九月に、母のたっての願いから、宮城県仙台市内にあったラ・サール修道会経営の児童養護施設「仙台光ヶ丘天使園」に入園、仙台市立東仙台中学校へ転校する。
  夏休み、ひさしと弟は、うまくいけば施設を抜け出せるかもしれないと、生まれ故郷である山形県小松町の祖母の家に遊びに行くのだった。

  作家・井上ひさし氏の生まれ故郷、山形県川西町で菊作りに励む著者は小説『下駄の上の卵』を読み終えるとミニコミ紙の仲間に呼びかけて、作家に故郷で講演してもらおうと運動を始めます。そして、一通の手紙を書いたことから思わぬ運命をたどることになります。東北の農村に作家・井上ひさし氏の蔵書が運ばれて大きな図書館(遅筆堂文庫)と劇場が誕生するまでを綴ったノンフィクションです。

『遅筆堂文庫物語』にみる井上ひさしの故郷感          遠藤征広〔著〕  日外アソシエーツ  1998年6月 刊

  イタリアのボローニャに住む、ノーベル文学賞受賞者の片腕といわれるフランコ・ジェルヴァジオさんから、広島を描いた一幕物の『父と暮せば』をイタリアでやりたいと長文の手紙をもらったの契機に、井上ひさしはイタリアを訪ねるのであった。ボローニャに着いてサン・ドメニコ聖堂を見ながら井上は昭和24年ごろのことを回想するのだった。

『ボローニャ紀行』にみる故郷                               平成20年(2008年) 文藝春秋 刊

『あくる朝の蝉』にみる故郷                                     昭和48年(1973年) 別冊文藝春秋

解 説


  井上ひさしのDV(家庭内暴力)は、つとに有名である。DVをふるわれた前妻の好子さんが書いた『修羅の棲む家』(はまの出版 1998年)に次のような記述がある。
「肋骨と左の鎖骨にひびが入り、鼓膜は破れ、全身打撲。顔はぶよぶよのゴムまりのよう。耳と鼻から血が吹き出た」と。もし事実であるなら、ひどい男だ。また、ホームページにはこんな書き込みもある。「義父から虐待を受け、孤児院に預けられ、そして修道士の献身的に生きる姿に接する人生経験は、ヌクヌクと育った子供と違う体験、これは文章かく、小説を書く上では、ずいぶん財産になっただろうと想像される。ただ、やったいたずらは、当時の子供にしても残酷なことをしている。」といい、小学生のころ、火の見櫓から猫を落として殺したり、高校生のときには猫にガソリンをかけて焼き殺したと続ける。つまり、この文を書いた作者は、井上ひさしのDVは育ちのせいだといいたげだ。
  はたしてそうだったのだろうか。私はそうは思っていない。育ちのせいで暴力的な人間になったのだとしたら、人に見えないところだけで粗暴なふるまいをするとは考えられないからだ。ひさしと好子さんの組み合わせがよくなかったのだろう。私の故郷の方言に「そびをかう」という言葉がある。「からかう」、「ちょっかいをかける」といった意味で使われるが、「そびをかう」から、ひさしが爆発したのではないかと思える。
  ともあれ、井上ひさしの作品を読むうえで気をつけなければならないのは、最後まで彼は戯作者であったことだ。読者を手玉にとって、ほくそ笑むようなところがある。したがって作品を読んで彼の人となりに迫ろうとすると術中にはまることがある。


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  お手紙ありがとうございました。小生が『羽前小松』を嫌っているなどは、ひどいデマです。じつは六十歳になったら小松に住もうと思っている位なのです。講演会は来年の八月新山神社のお祭りの日にやりましょう。会場はあまり広くない方がよいと思います。公民館のようなものがきっとあると思いますが、二百人収容ぐらいの。そこでやりましょう。なお謝礼の心配はいりません。お金は不要です。>            ・・・・・・・・・・<故郷から講演を依頼された手紙に、井上ひさしがだした返事のはがき>

柿木

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