林 芙美子  『晩菊』より抜粋

 長火鉢の前にゐる田部が、好きなのかきらひなのか少しも判らないのだ。帰つて貰ひたくもあり、もう少し、何かを相手の心に残したい焦りもある。
 田部の眼は、自分と別れて以来、沢山の女を見て来てゐるのだ。厠へ立つて、帰り、女中部屋を一寸のぞくと、きぬは、新聞紙の型紙をつくつて、洋裁の勉強を一生懸命にしてゐた。
 大きなお尻をぺつたりと畳につけて、かゞみ込むやうにして鋏をつかつてゐる。きつちり巻いた髪の襟元が、艶々と白くて、見惚れるやうにたつぷりとした肉づきであつた。きんはそのまゝまた長火鉢の前へ戻つた。
 田部は寝転んでゐた。きんは茶箪笥の上のラジオをかけた。思ひがけない大きい響きで第九が流れ出した。田部はむつくりと起きた。そしてまたウイスキーのグラスを唇につける。
「君と、柴又の川甚へ行つた事があつたね。えらい雨に降りこめられて、飯のない鰻を食つた事があつたなア」
「ええ、そンな事あつたわね、あの頃はもう、食べ物がとても不自由な時だつたわ。貴方が兵隊さんになる前よ、床の間に赤い鹿の子百合が咲いててさア、二人で、花瓶を引つくり返したこと覚えてゐる?」
「そンな事あつたね……」
 きんの顔が急にふくらみ、若々しく表情が変つた。
「何時かまた行かうか?」
「えゝ、さうね、でももう、私、おくくふだわ……もう、あそこも、何でも食べさせるやうになつてるでせうね?」
 きんは、さつき泣いた感傷を消さないやうに、そつと、昔の思ひ出をたぐりよせようと努力してゐる。そのくせ、田部とは違ふ男の顔が心に浮ぶ。
 田部と柴又に行つたあと、終戦直後に、山崎と云ふ男と一度、柴又へ行つた記憶がある。山崎はつい先達胃の手術で死んでしまつた。
 晩夏でむし暑い日の江戸川べりの川甚の薄暗い部屋の景色が浮んで来る。こつとん、こつとん、水揚げをしてゐる自動ポンプの音が耳についてゐた。
 カナカナが鳴きたてて、窓べの高い江戸川堤の上を買ひ出しの自転車が競争のやうに銀輪を光らせて走つてゐたものだ。




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