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  まだ、山の家が普請半ばで、玄関も仕上がっていない母屋の先の空地を、花畑にでもするつもりでまわりに山でぬいてきた萩、すすきを植えこみ、荒土が出たままに放ったらかしていた夏はじめの話である。


<水上勉は平成3年に軽井沢の別荘から北御牧村(現東御市)の八重原地区に移り住み、平成16年9月に肺炎でなくなるまでの13年間にわたって創作活動を続けていた。この作品は、そこで書かれた。水上勉の遺作である。この作品には、故郷も母もでてこないが、それゆえ、あえてここに取り上げた。『故郷』の主人公・芦田夫妻は終焉の地を見つけられなかったが、北御牧村は水上勉が選んだ終焉の地だと思えるからだ。>

「小寺さんは、現役で左官をやりながら、女性の方も大丈夫なんですか」
「わたしは、きれいなフレンドですよ、センセ」



  かけがえのない、大切な女がそこにいる。私は、カオルの何げない挙措のやすらかさに、心を打たれた。それに小寺源吉が、白毛のまじった無精髭も剃らないで、デートを楽しみにしていたらしい笑顔を正直に見せて、黄色い歯をだしてスイカを喰うしわばんだ口角から、種子がこぼれ出てきて掌にうけたのを、つぎつぎとカオルにわたす仕草に、ふたりの親密さがにじみでていると思った。こんなふうに、カオルを家へ呼んで、何かと用事をさせているにちがいない老人の日常がわかって、いっそう興味がつのる。



  小寺源吉はカオルと一しょに風呂へ入る時など、カオルの全身をつくづく眺めて、タイ娘の肌は、これまで見た妻や娘の肌にくらべ、京壁のようだと思う。左官職人だから、人の肌を壁にたとえて自然だろうが、カオルが連れのカスミやメグミと、余地にきて家の風呂へ三人いっしょに入って、桶の音などたててきゃッきゃッとさわいでいる声をきいても、小麦色の艶肌をくらべてあそんでいるように思う。



<源吉はカオルらのために自分の家の敷地内に家を建て、カオルたちをただで住まわせるのであった。そこへ逮捕の手がのびる。>

  娘たちが、巣箱の家からいっせいに姿を消したのは、新顔の娘らがきて十日とたたぬ五月三十日だった。朝からじめじめする梅雨空の重たい日で、杉林の下の六角堂の屋根は、二日ごし雨でじっとりぬれていた。
  中駒の「あやめ」と「男爵」と「バンコク」に警察の手入れがあって、娘たちが風俗営業法違反と、不法滞在で捕まったのである。夜なか二時ごろだった。自動車の音がして、五人の女らがいつもとちがう音をさせたので目がさめた。台所から流しごしに窓から覗いていると、日本人の男がふたり、六角堂から出るのが見えた。ふたりとも卵色のジャンパーを着て黒っぽいズボンをはいて、ひとりは山高帽をかぶっていた。警察官かな、と源吉は思った。そのとおりだった。



「結局はどれくらいいたんですか」
  きいたら、
「一年半だったな。カオルがいちばん長くいたが」
  といってから源吉さんは、外を見た。
「センセよ。おらた、磯部へ嫁にいってる実の娘よりも、カオルが好きだった。作市らのように元気もねえから、寝でやる勇気はなかったけもよ。この年なって、仕事して帰る夕暮れに、あの娘が、ふた股道の杉木立で待っていねと淋しんだわな」
  そういって、
「おかしいもんだな。おらた年とってから急に春がきてよ。鳥が肩にとまってくれてさえずってたような気分を味わわせてもれってよ」
  とまたわらった。私は羨ましかった。私も来年は七十四になるのだけれど、あなたのように、鳥がきてさえずってくれる春は来そうにもない、といいたかった。が、いわずに黙って、しわばんだ源吉さんの口角を見ながら、枇杷を食っていると、
「渋いずら」
  と源吉さんは、肉の落ちた頬をしかめた。



<信州時間か、遅々として家が完成しない。そのさなか、旅に出た京都で胃のなかにできたポリープが破裂。救急車で病院に運ばれ、内視鏡手術を受けて九死に一生を得て北御牧村の家に帰ってきた。>

「どうだね。房蔵らもよんでさ、みんなセンセの退院祝いとゆかねが」
「んだな。そりゃいいだわ」
  源吉さんも賛成して、十一月はじめに、もう一ど日時を電話で相談してから、中駒に集まって、タイ娘かフィリピン娘らのいる店で一杯やろうかと、いうことに決まった。



<退院祝いの飲み会は、中駒の寿司屋「兵六」と東南アジアからきた娘たちの働くバー「プレジデント」だった。最後はお決まりのカラオケ大会になった。そして、お決まりの………。>

「源吉さんや、おらた信濃の国をだすべか」
  というと源吉さんも房蔵も同時に、
「んだないっちょうたうべか、センセもどうかね。歌わねか」
  と私を誘った。作市も立ちあがっていた。信濃の国は歌ったことはなかったけれどよくきく歌だった。建前の夜や、地鎮祭のとき大工や左官たちが手をたたいて歌っていた。歌詞は嫌いでもなかったが私には歌えなかった。やがて源吉を真ん中にして三人の大工と二人の老左官が歌いはじめた。いささか私には陳腐ではあったが、まじめな老人たちの歌のようにきこえた。フィリピンの娘たちは聞き慣れていると見えて、手をたたいて合いの手を入れた。

  信濃の国は十州に境連ぬる国にして
  聳ゆる山はいや高く流れる川はいや遠し
  松本、伊那、佐久、善光寺、四つの平は肥沃の地
  海こそなけれ物さわに、よろずたらわぬことぞなき

  木曾の谷には真木茂り諏訪の湖には魚多し
  民の稼ぎも豊かにて五穀の実らぬ里やある
  しかのみならず桑とりて蚕飼いの業のうち開け
  細きよすがも軽からぬ国の命を繋ぐなり

水上 勉 作品リスト

フライパンの歌 文潮社 1948 角川文庫
風部落 文潮社 1948
世界の文豪 あかね書房 1952(世界伝記文庫)
霧と影 河出書房新社 1959 のち新潮文庫、角川文庫
海の牙 河出書房新社 1960 のち角川文庫
耳 光文社 1960(カッパノベルス) のち角川文庫
巣の絵 新潮社 1960 のち角川文庫
火の笛 文藝春秋新社 1960
うつぼの筐舟 河出書房新社 1960 のち角川文庫
爪 光文社 1960(カッパ・ノベルス) のち中公文庫
赤い袈裟 角川小説新書 1961
銀の川 角川書店 1961 文庫
黒い穽 光風社 1961
虚名の鎖 光文社 1961 のち集英社文庫、光文社文庫
雁の寺 文藝春秋新社 1961 のち文庫
蜘蛛の村にて 桃源社 1961
決潰 新潮社 1961 のち角川文庫
黒壁 角川書店 1961
棺の花 文藝春秋新社 1961
野の墓標 新潮社 1961 のち集英社文庫
若狭湾の惨劇 角川書店 1962
花の墓標 中央公論社 1962
死の插話 河出書房新社 1962
死の流域 中央公論社 1962 のち角川文庫
虫の宴 新潮社 1962(ポケット・ライブラリ) 集英社文庫
海の葬祭 文藝春秋新社 1962
雁の死 文藝春秋新社 1962
オリエントの塔 文藝春秋新社 1962(ポケット文春)
眼 光文社 1962(カッパ・ノベルス) 文庫
五番町夕霧楼 文藝春秋新社 1963 のち新潮文庫
枯野の人 光風社 1963
西陣の蝶 中央公論社 1963
薔薇海溝 光文社 1963(カッパ・ノベルス) のち文庫
空白のカルテ 光風社 1963
蒼い実験室 文藝春秋新社 1963(ポケット文春)
日本の壁 光風社 1963
越前竹人形 中央公論社 1963 のち新潮文庫、中公文庫
告白 河出書房新社 1963
飢餓海峡 朝日新聞社 1963 のち新潮文庫
銀の庭 文藝春秋新社 1963 のち角川文庫
盲目 角川小説新書 1963 のち文庫
死火山系 角川書店 1963 のち光文社文庫
越後つついし親不知 光風社 1963 のち角川文庫、新潮文庫
若狭草紙 桃源社 1963
沙羅の門 講談社 1964 のち中公文庫
好色 新潮社 1964 のち角川文庫
波影 文藝春秋新社 1964 のち角川文庫
赤い灯台 新潮社 1964
あかね雲 講談社 1964 のち中公文庫
那智滝情死考 講談社 1964 のち角川文庫
高瀬川 河出書房 1964 のち集英社文庫
三条木屋町通り 中央公論社 1964
吹雪の空白 光文社 1964(カッパ・ノベルス)
流旅の花 光風社 1964
しがらき物語 新潮社 1964 のち集英社文庫
砂の紋章 集英社 1965(コンパクト・ブックス) のち文庫
海の墓標 講談社 1965
鶴の来る町 文藝春秋新社 1965 のち角川文庫
比良の満月 桃源社 1965
春の波濤 講談社 1965
負籠の細道 中央公論社 1965 のち集英社文庫
坊の岬物語 河出書房新社 1965
おきん 新潮社 1965 のち文春文庫
有明物語 中央公論社 1965 のち角川文庫
京の川 新潮社 1965 のち文庫
湖の琴 講談社 1966 角川文庫
京都物語 第1-6 全国書房 1966-1967
野の鈴 講談社 1966 のち文庫
鷹の鈴 集英社 1966
島へ 新潮社 1966
銀の座 講談社 1966(ロマン・ブックス)
私の受けた家庭教育 有紀書房 1966
湖北の女 集英社 1966(コンパクト・ブックス) のち文庫
無縁の花 桃源社 1966(ポピュラー・ブックス)
おえん 桃源社 1966(ポピュラーブックス)
螢 東京文芸社 1966
蜘蛛の村にて 桃源社 1966(ポピュラー・ブックス)
湖笛 毎日新聞社 1966 のち角川文庫
城 文藝春秋 1966 のち文庫
霰 新潮社 1967 のち文庫
凍てる庭 新潮社 1967 文庫
鐘の音 文藝春秋 1967
雁帰る 徳間書店 1967
くも恋いの記 青春出版社 1967 のち集英社文庫
ちりめん物語 文藝春秋 1967
日本海辺物語 雪華社 1967
くるま椅子の歌 中央公論社 1967 のち文庫
山襞・海鳴 中央公論社 1967
陽だまりの歌 講談社 1967
檻を出る女 春陽文庫 1967
恋愛と人生の45章 光風社書店 1967
火の笛 東方社 1967 のち角川文庫
黒百合の宿 春陽文庫 1967
告白・女心遍歴 講談社 1967(ロマン・ブックス)
西陣の女 新潮社 1968 のち文庫
猿おがせ 講談社 1968
佐渡の埋れ火 文藝春秋 1968 のち文庫
しらかわ巽橋 集英社 1968(コンパクト・ブックス) のち文庫
若狭路 淡交社 1968
私の幸福論 大和書房 1968 のち女性論文庫
雪のなかの花 新潮社 1968(新潮小説文庫)
女の森で サンケイ新聞社出版局 1969 のち文春文庫
桜守 新潮社 1969 のち文庫
弥陀の舞 朝日新聞社 1969 のち角川文庫
紅花物語 主婦の友社 1969 のち角川文庫
狩野芳崖 中央公論社 1969
失われゆくものの記 講談社 1969 のち集英社文庫
男色 中央公論社 1969 のち角川文庫
波影・貴船川 角川文庫 1969
水上勉の本 ベストセラーズ 1970
しあわせの心の架け橋 光風社書店 1970
樹影 講談社 1970 「石を抱いた樹」文庫
枯木の周辺 中央公論社 1970
失なわれた心 文和書房 1970
一匹のひつじ 大光社 1970(語りおろしシリーズ)
旅雁の記 大光社 1970
花の村、海の村 三笠書房 1970
木綿恋い記 文藝春秋 1970 のち文庫
冬日の道 中央公論社 1970
わが華燭 朝日新聞社 1971 のち文庫
宇野浩二伝 中央公論社 1971 のち文庫
わが山河巡礼 中央公論社 1971 のち文庫
凩 新潮社 1971
蛙よ木からおりてこい 新潮社 1972(新潮少年文庫)
北国の女の物語 講談社 1972 のち文庫
玉椿物語 新潮社 1972 のち文庫
兵卒の鬣 新潮社 1972 のち角川文庫
生きるということ 講談社現代新書 1972
静原物語 中央公論社 1972 のち文庫
私のなかの寺 昭和出版 1972(作家の自画像)
鈴の鳴る人 第1部 毎日新聞社 1972
越前戦国紀行 平凡社 1973 「越前記」中公文庫
古河力作の生涯 平凡社 1973 のち文春文庫
風を見た人 講談社 1973 のち文庫
釈迦浜心中 新潮社 1973
冥府の月 筑摩書房 1973 のち集英社文庫
焚火 文藝春秋 1973 のち文庫
流れ公方記 朝日新聞社 1973
         のち集英社文庫、「足利義昭」人物文庫
馬よ花野に眠るべし 新潮社 1973 のち角川文庫、中公文庫
わが六道の闇夜 読売新聞社 1973 のち中公文庫
火の舞い 講談社 1974 のち文庫
その橋まで 新潮社 1974 のち文庫
金閣と水俣 筑摩書房 1974
恋愛指南 角川文庫 1975
禅の道紀行 平凡社 1975(歴史と文学の旅)
良寛正三白隠 秋田書店 1975
日本紀行 正続 平凡社 1975-1876
はなれ瞽女おりん 新潮社 1975 のち文庫
蓑笠の人 文藝春秋 1975 講談社文芸文庫
越前一乗谷 中央公論社 1975 「越前記」中公文庫
一休 中央公論社 1975 のち文庫
草ぐさの心 毎日新聞社 1975(日本の心シリーズ)
わが草木記 光風社書店 1975
ヨルダンの蒼いつぼ ソノラマ文庫 1976
帰山の雁 実業之日本社 1976 のち角川文庫
自選作家の旅 山と渓谷社 1976
足もとと提灯 正続 家の光協会 1976-1977 のち集英社文庫
あひるの子 集英社 1976 「あひるの靴」文庫
京の寺 平凡社カラー新書 1977-1978
近松物語の女たち 中央公論社 1977 のち文庫
さすらい山河・地底の声 ソノラマ文庫 1977
壷坂幻想 河出書房新社 1977 のち文庫、講談社文芸文庫
寺泊 筑摩書房 1977 のち新潮文庫
道の花 新潮社 1977 のち文庫
いまもむかしも愛別ばなし 文化出版局 1977 のち角川文庫
花守の記 毎日新聞社 1977
虫のいのちにも 大和出版 1977(わが人生観)
流旅の人々 実業之日本社 1977
くさらなかった舌 日本霊異記 平凡社 1977(平凡社名作文庫)
片しぐれの記 講談社 1978
わが風車 新潮社 1978 のち文庫
霊異十話 河出書房新社 1978 のち「乳病み」文庫
水上勉対談集 毎日新聞社 1978
草の碑 現代史出版会 1978
土を喰ふ日々 文化出版局 1978 のち新潮文庫
今生の人びと 構想社 1978
水の幻想 日本書籍 1979
てんぐさお峰 中央公論社 1979 のち文庫
鳰の浮巣に 読売新聞社 1979 「古都暮色」角川文庫
虎丘雲巌寺 作品社 1979
山門至福 集英社 1979
片陰の道 現代史出版会 1979
金閣炎上 新潮社 1979 のち文庫
鳩よ 角川書店 1979
わが読書・一期一会 潮出版社 1979
落葉帰根 小沢書店 1979
軽井沢日記 三月書房 1979
ブンナよ、木からおりてこい 三蛙房 1980 のち新潮文庫
冬の光景 毎日新聞社 1980 のち角川文庫
骨肉の絆 筑摩書房 1980
私版京都図絵 作品社 1980 のち福武文庫
京都古寺逍遥 平凡社 1980
草木の声 文化出版局 1980
椎の木の暦 中央公論社 1980 のち文庫
ものの声ひとの声 自伝的教育論 小学館 1980
父と子 朝日新聞社 1980-1981 文庫
停車場有情 角川書店 1980 のち朝日文芸文庫
水上勉戯曲集 中央公論社 1980
北京の柿 潮出版社 1981
谷捨蔵の憂鬱 講談社文庫 1981
母一夜 新潮社 1981 のち文庫
生きる日々 ぶどう社 1981
人の暦花の暦 毎日新聞社 1981
地の乳房 福武書店 1981 のち文庫
女ごころ風景 集英社文庫 1982
水上勉による水上勉 青銅社 1982(試みの自画像)
昨日の雪 新潮社 1982
竹の精霊 小学館 1982
鬼のやま水 小学館 1982
わが文学わが作法 中央公論社 1982
働くことと生きること 東京書籍 1982
修験峡殺人事件 角川書店 1982 のち文庫
白蛇抄 集英社 1982 のち文庫
草隠れ 構想社 1982
平家物語抄 学習研究社 1982 のち文庫
若狭幻想 福武書店 1982 のち文庫
わが女ひとの記 平凡社 1983 のち文春文
金色の淵 潮出版社 1983 のち文庫
「般若心経」を読む PHP研究所 1983 のち文庫
長い橋 新潮社 1983 のち文庫
京の夕立ち 集英社 1983 のち文庫
洛北女人館 主婦と生活社 1983
樹下逍遥 朝日新聞社 1984
京の思い出図絵 平凡社 1984
石よ哭け 径書房 1984
良寛 中央公論社 1984 のち文庫
鳥たちの夜 集英社 1984 のち文庫
波の暦 角川文庫 1985
絵ごよみ 実業之日本社 1986
箒川 新潮社 1986
閑話一滴 正続 PHP研究所 1986-1988 のち文庫
絵のある風景 中央公論社 1986
良寛を歩く 日本放送出版協会 1986 のち集英社文庫
秋夜 福武書店 1986 のち文庫
達磨の縄跳び 実業之日本社 1986
破鞋 雪門玄松の生涯 岩波書店 1986 のち同時代ライブラリー
若狭憂愁 実業之日本社 1986
瀋陽の月 新潮社 1986 のち文庫
沢庵 学習研究社 1987(書きおろし歴史小説シリーズ)
風の来る道 実業之日本社 1987
一休・正三・白隠 高僧私記 ちくま文庫 1987
若狭日記 主婦の友社 1987
生きる日死ぬ日 福武書店 1987
芝居ごよみ いかだ社 1987
一休文芸私抄 朝日出版社 1987 のち中公文庫
釈迦内柩唄 若州一滴文庫
一休を歩く 日本放送出版協会 1988 のち集英社文庫
禅とは何か 新潮選書 1988
現代民話 平凡社 1988 のちライブラリー
若狭海辺だより 文化出版局 1989
才市 講談社 1989 のち文芸文庫
私の履歴書 筑摩書房 1989
出町の柳 文藝春秋 1989 のち文庫
山の暮れに 毎日新聞社 1990 のち集英社文庫
マサテル 河出書房新社 1990(メルヘンの森)
木の声草の声 家の光協会 1990
在所の桜 立風書房 1991
年々の竹 立風書房 1991
谷崎先生の書簡 ある出版社社長への手紙 中央公論社 1991 のち文庫
折々の散歩道 1-3 小学館 1993-1997(サライブックス)
醍醐の桜 新潮社 1994
心筋梗塞の前後 文藝春秋 1994 のち文庫
京都古寺 立風書房 1994
京都遍歴 立風書房 1994
骨壷の話 集英社 1994 のち文庫
わが別辞 小沢書店 1995
清富記 新潮社 1995 のち文庫
人は練磨によりて仁となる プレジデント社 1995
文芸遠近 小沢書店 1995
私版東京図絵 朝日新聞社 1996 のち文庫
一日暮し 角川書店 1996 のち文庫
立往生のすすめ 倫書房 1996
精進百撰 岩波書店 1997 のち現代文庫
故郷 集英社 1997 のち文庫
文壇放浪 毎日新聞社 1997 のち新潮文庫
京都花暦 立風書房 1998
電脳暮し 哲学書房 1999 のち光文社知恵の森文庫
小さな山の家にて 毎日新聞社 1999
説経節を読む 新潮社 1999
泥の花 「今、ここ」を生きる 河出書房新社 1999 のち文庫
越の道 河出書房新社 2000(日本の風景を歩く)
若狭 河出書房新社 2000(日本の風景を歩く)
丹波・丹後 河出書房新社 2000(日本の風景を歩く)
近江・大和 河出書房新社 2000(日本の風景を歩く)
京都 河出書房新社 2000(日本の風景を歩く)
仰臥と青空 「老・病・死」を超えて 河出書房新社 2000
竹紙を漉く 文春新書 2001
虚竹の笛-尺八私考 集英社 2001 のち文庫
植木鉢の土 小学館 2003
たそ彼れの妖怪たち 幻戯書房 2003
花畑 講談社 2005
筑波根物語 河出書房新社 200
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たった一人の少年に
ぼくはこの村に生まれたけれど、
十才で京都に出たので、
村の小学校も卒業していない。
家には電燈もなかったので、本もよめなかった。
ところが諸所を転々して
好きな文学の道に入って、本をよむことが出来、
人生や夢を拾った。
どうやら作家になれたのも、本のおかげだった。
ところが、このたび、所蔵本が多くなって、
どこかに書庫をと考えたが、
生まれた村に小さな図書館を建てて、
ぼくと同じように本をよみたくても買えない少年に
開放することにきめた。
大半はぼくが買った本ばかりだ。
ひとり占めしてくさらせるのも勿体ない。
本は多くの人によまれた方がいい。
どうか、君も、この中の一冊から、何かを拾って、
君の人生を切りひらいてくれたまえ。
たった一人の君に開放する。

遺作 『花畑』にみる故郷                 1993年3月号~1994年月号まで『群像』に連載

「本堂には、アルミサッシのガラス戸がしまっとる。庫裡には、合成板の縞タイルがはられてある。あれはいったん火がつくと、猛毒が出て、煙を吸うただけで死んでしまう代物や。いまの建材商は、いうてみれば、地獄の鬼の使い人で、人口増加の日本の国をみるにみかねて、なまけ者の寄り集まりをこしらしめるために、毒で殺したがよいという鬼から命じられて、あのような材料を大工にすすめておるんや。 ・・・・ 略 ・・・・
………もっとも、大勢の病人が出て死ぬと、葬式代も入る勘定やから、このところ、本堂も庫裡も合成板にすっかりつくりかえとる。知ってのように、あの板には、木の目の印刷がしてある。あれは木でのうて、木のようにみせかけた代物やさかい。つまりは、寺の建物が、見せかけものになると、そこに住んでおる和尚やだいこくの心までが、それに染まってしまうのや。無我無欲の坊主が金がほしい人間に化けたのはそのためや。 ・・・・ 略 ・・・・」

「ナイト・シー・イズ・ベリィ・グッド」
「このけしきは、あなたのお母さんが、あなたがまだ小さい時にあなたを抱いて眺めていたときと少しもちがわない」
  玄堂は、胸をついてくることばを上手にいいたかったのだが、英語がよく使えないので、日本語で感慨をこめていったものだった。
「ごらん、遠くに岬がみえて、白いドームが空明かりの下にある。音は何もしない。だがあれが、原子力発電所の明かりだ。ドームだよ。大勢の人が働いている。ウラン燃料棒も休まず燃えているはずだが、大自然は、そんな文明の発電所さえろうそくの明かりぐらいに小さく抱えてだまっている。静かな静かな海だ………キャシーさん、あんたは、よくぞあんたのお母さんの故郷………若狭へもどってきてくれた………あんたの人生にとっても、この静かな夜の海が、忘れがたい風景として心にのこるように………あしたからのあなたの旅を………ゆたかなものにしなければなりません」
  玄堂は、英語を勉強しておかなかった五十年昔の大学時代をこれほど悔やんだことはないと、あとで語った。 

水上 勉の作品にみる故郷

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< 水上 勉 の“死”との付き合い方は、徹底していた。例えばこんなふうにだ。 >

  月の半分以上は、信州の北御牧村で仕事をしているので、山の家の寝室も棺桶ふうにつくってある。ま四角の一メートル八〇、一間計算で三坪の部屋だが、なるべく、棺桶のイメージに似せて、板で囲い、むろん板床の上にベッドを置いている。ほかには、本棚の本と机がわきにあるだけ、あとは何もない。時に段ボール箱に入れたシャツだの、下着だのが入っているが、そんな殺風景な部屋をベッドに入る直前に一べつして、私は死ぬまねをする。「さようなら」とまっ暗闇の中で、声をだして誰にともなくいうのである。信州の場合は東京の妻と、障害を背負うている娘に長生きしてほしいというのである。よそにいるもう一人の娘にもいうのだ。そうして、私は、友人の誰彼と名はあげぬまでも、時々、日頃世話になっている人の顔を思いうかべながら、「さようなら」といい、仰向けになり、胸もとで手を合わせ組むのである。「さようなら、みなさん」 (『死ぬこと』)
<往年の名女優サラ・ベルナールも、棺桶に薔薇の花を飾り立て、そこに入って寝ていたという。なぜそんなことをしていたのか、ぼくは詳しく知らないが、水上勉の心理はそれとは別のものだったろう。彼はこうつづける。>
  死んだはずの夜があけた朝は気分がよい。ゆうべ死んだのだから、儲けたような気がするのである。これがいい。その日一日が儲け。おまけである。私はこの一日に雨がふればそれもうれしい。お天気なら尚更うれしい。どっちにしろ、二十四時間のおまけにもらったその一日を自由に送るのだ。自由に、誰に気がねもいらぬ一日を、好きなように生きるのである。このような朝がむかえられるのも、死んだればこそのことだと思う。 (同)

ーー抜粋ーー

「弥ァには、お母んの思いでがひとつだけありますわいな、………野良着きて、もんぺはいてのう、出道歩いているうしろ姿をみたんどすわいな。けんども、弥ァはおっ母あの顔はおぼえておりませんのや………若かったか年寄りやったか………さて、親の姿をみたのはその時くらいのもんで………はっきりしませんのや」


  弥八には母親と歩いた記憶はあるけれども、母親に抱かれたり、負われたりした記憶はないのであった。まして、乳房にふれた記憶などはあり得ようはずもなかった。


「わいがのう、お母んにつれられて歩いた道に似とるのはここですわいな。わいは、ながいこと、京の土をはこんでいて、この道へくるとお母んを思いだしたですわいな………… たぶん………ここらあたりやろ………そこの川の小石の上での………青い足をしたシギが一羽立っとりましたわいな。わいは子供じゃきんやさかい、すぐ、石なを拾うて、投げてやろうと思うて、川柳の繁った岸にかくれて近よろうとすると、『弥ァ』ちゅうてお母がとめたんですわいな。『弥ァよ、石投げるな。シギが巣ゥの子に餌やろ思うて………じっと見守っとる…………そっとしといてやれ』こないいうて、いまでもきつのこっとりますわいな…………この道が…………よう似とるんですわいな…………京から帰るたんびに…………お母んを思いだすのんがこの道どしたんや」


  弥八はどこで生まれたのか、父や母が誰であったか、知らなかったのである。だが弥八は、自分のうまれた所は信楽付近にちがいないと思いきめているようであった。
<お嬢…………シギはどこからとんでくるんやろの………教えてくれんかいの…………>  
 まだ、小夜が小さかったころ、信楽の晴れた青空をとびかうシギのむれをみて、弥八がたずねたことを小夜は思い出すからであった。弥八は死ぬまぎわに、母と歩いた、信楽川の岸べへいってみたかったのかもしれない。


  作者は、この物語の冒頭でのべたように、老陶工の薄幸な死に哀れと興味をおぼえて、数どにわたる信楽の探訪をかさねることになったのだが、探訪の目的は、薄幸な老職人が信楽川の水辺で死んだことへの哀惜と、その真因を知りたいためにほかならなかった。廃人同様で家に寝たり起きたりだった弥八が、遠い川岸まで歩いていって死んでいたということに疑問を抱かずにはおれなかったからである。


「弥八は死ぬまで、おのがふるさとを知りませんなんだ。左様でございますから、弥八は、やっぱり、自分の故郷は、あの川あたりじゃと思うておったものでございましょうな…………同じ死ぬなら、そこへ行って死んだ方がよいと思うたのでござりましょうか、それとも、弥八は、信楽の空は煙でシギもとんでこん、昔のように窯を焼いても澄んでおらんといいとおしておりました故にあるいは、子供心に母親とみた、シギの巣を探しにいっておったのでもございましょうか」


水上 勉(みずかみ つとむ  ペンネーム=みなかみ つとむ)
  1919年(大正8年)3月8日~2004年(平成16年)9月8日。 日本の小説家。
  福井県大飯郡本郷村(現:おおい町)の大工の家に生まれる。5人兄弟の次男。9歳(10歳説あり)の時に京都の臨済宗寺院相国寺の塔頭(たっちゅう)の瑞春院の小僧ととして修行に出されるが、あまりの厳しさに出奔。その後、連れ戻されて等持院に移る。 このときの経験がのちに『雁の寺』、『金閣炎上』の執筆に生かされた。
  旧制花園中学(現:花園中学校・高等学校)を卒業、立命館大学文学部国文科に入学するが 18歳(1937年=昭和12年)のときに中退。 禅寺を出奔して東京に出たのちに 様々な職業を経ながら小説を書くが、なかなか認められなかった。
  処女作は1947年(昭和22年)、28歳のときに書いた『フライパンの歌』でベストセラーになったが、現在のようなスター作りも行われなかった時代だったので、その後は泣かず飛ばず、生活に追われ、体調を崩して文筆活動から遠ざかった。
  1959年(昭和34年)、矢切に住んでいた40歳の時に書いた日本共産党のトラック部隊を題材にした『霧と影』が河出書房の坂本一亀氏(音楽家:坂本竜一の父)に認められ、 出版されたのを機に執筆を再開。作家の仲間入りをする。

所在地:福井県大飯郡おおい町岡田

 2004年9月8日の朝は、水上勉にとって最後の夜明けだった。多くの文学作品のほかに、手漉きの竹紙に描いた絵と、手作りの骨壺と、それにたくさんの人々への思いを遺して、彼は逝った。85歳だった。後日「お別れの会」が開かれ、祭壇は45本もの竹に囲まれたという。彼は今、みずから作った骨壺の中で眠っている。

勘六山房
 作家、故水上勉氏が主宰し、1993年に長野県東御市に作った工房。丘の上の白い屋根と黒い屋根の2棟

 水上氏が最晩年の12年間を過ごし、執筆活動を始め、様々な創作活動を行った山房で、現在も水上氏の思想に基づき、その場所の竹、土を使った竹紙、陶器を制作している。

 正直なところ、母の死で、故郷の村は急速に色あせてきているのだった。山も川も空もである。どこを見ても、何を見ても、昨日までのように心をうごかしてくれる力がなかった。変わったのは、地蔵谷のさんまいぐらいだろう。母はこの大屋敷の古家から、谷へうつって眠っていた。富美子が昨日まで半分は欲しいと思っていた梅林も、そのさんまいからつづきの谷になっているけれど、さんまいに魅かれるほどの力をもはや持たなかった。不思議なことながら、母の死で、梅も背景の山も色を失い、空虚な灰いろ一色の風景になっているのである。
「大きな力だった。お母さんは、そう思わない………死んじゃたら、この家、まったく変わってみえるでしょ。家まで死んじゃったみたい」

<日本滞在中に富美子の母が亡くなった。兄弟姉妹が集まって遺産相続問題が起こる。>

「アメリカから帰って、こっちゃへ住みたいいうとるらしいけど、地蔵谷の梅林が目当てやときいたが、それは、兄弟みんなの意見を聞いてからにせんとあかんのやないか」
  富美子は軀のこわばるのをおぼえた。秀一郎の物言いには、むずかしかろうと聞きとれた。
「あした葬式をすませてから、兄弟らでみんなじっくり協議して、あとあとのことをきめるつもりやが。日本へもどるつもりかいな」
 それだけ
はきいておきたい、といいたげに富美子へ眼をむけるのである。

療養のために長野の山間の村へと移り住むことになった<センセイ>と呼ばれる主人公。その村で暮らす左官の小寺源吉という老人と、出稼ぎのために日本へと来たタイ人女性たち。さまざまな現実の問題を抱えながらも生きる姿を、どこかユーモラスにあたたかな視線で描いた遺作。<生、そのもの>をみつめた、水上文学の到達点ともいえる長編小説。

「原発はおきらいですか」
「きらいというわけじゃないけど、やっぱり、いままで働いたお金をつかって、老後の安住の地をもとめるとすれば………何も、ぼくらの世間では評判もわるい原発の近い村までゆくのはね………ちょっと、気になるんだよ」
「やっぱり、原発の村は老後のくらしににつかわしくないですか」
  富美子は、夫のいうこともよくわかる。夫ばかりではない。長男の謙吉もいったのだ。
<あれは文明のお化けだよ。何も年とってからお化けの棺桶のそばにへ眠りにゆかなくてもいいじゃないか>
  ハドソン河畔のマンションで、子供らは、富美子の故郷移住をそのようにいって反対したのだ。
<いいところはいっぱいあるよ。日本のどこかに………>
  息子らが親たちの若狭移住に反対する理由は、原発が十一も密集する母の故郷に批判的だからであった。とりわけて、スリーマイル島で起きた恐怖の事故以降は、若狭の里にいる祖母のことを心配するようになった。当然のことだった。

  和尚のいうことも、少し厭世的だなと、巡査は思った。どこやらムチウチの直造に似ていないか。
  だが、巡査はだまってきいた。
「つまり、原発は、大勢の都会人を村へ連れてきて、町の経済発展に大きな力をくれたが、古いしきたりというか、美風というか、不便だったために、大事にしてきた村人の独特のおおらかさを、根こそぎ変えてしまいよった………まあ、変わったのは、村の衆やから、原発にばかり罪があるとはいえんが、古くから、都会に憧れる気風をもっていた村の衆に、どっぷりと目の前へ、消費文化をもちこんで誘いよせたからうちの静枝までが、和尚さん電子レンジ買うてくれいうことになった。生活というものが、まるっきり変わってきたで、人心も変わって不思議はない。そやから、松宮のはつ江も淳二も、勇一も、もどってこんや。もどっても、高槻や大阪のこせこせした都会ぐらしと、そう代わりばえのせん連中ががおって、農機具のローンにおわれて、死に物狂いで原発通いしとる姿を見ただけのことやさけ、むかしのようにひかれるものがないのかもしれん………」

<神戸での会議が終わったあと、芦田夫妻は二人の故郷である若狭を訪ねた。>

「神戸の景色もよかったけど、宮津もいいわね。でも、やっぱり、裏日本といわれるとおり鉛色だと思うわ」
  と富美子はいった。
「裏日本か」
  と孝二はふりかえって、
「いつから、丹後を裏といいはじめたのかしらんが、よく京都にいる時も、人はそんなことをいったもんだ。なんだか、ぼくらは裏に生まれて表に出てきたというふうに教えこまれてしまってきたが、ほんとうのところをいえば、こっちが表なんだよ」
「あら、そう」
「そうじゃないか。舞鶴にはロシアの船もついていたし朝鮮の船もついていた。宮津だって風待ち港で外来船は着いてるよ。古い時代は、みな、こっちから、人がきて都へわたっていった。神宮皇后の船出も敦賀だった。神社だって、寺だって、奈良や京都にまけない古いものがたくさんあるよ。成相寺だって、たぶん四国霊場の何番だったか、わすれたけど霊場まいりの人は必ずきたもんだよ。神戸なんぞは、新興都市だ。ずうーっと、ずうーっとあとのことだ。ところが、そっちを表といって、なぜか、こっちを裏という、ずいぶん、ぼくらも劣等感をもって育ったことになるが、しかし、ぼくはいつきても思うんだ。故郷はいい、故郷は何といってもいちばんの都会だと」
「………」
  富美子はそういわれて若狭の三尾の奥にある山に囲まれた楢沢の集落を思いうかべた。そこには夫のいうような古い都はない。あるものは、古い古い農家ばかりだった。

<30年ぶりにニューヨークから日本に戻ってきた芦田孝二と富美子夫妻は、故郷を出て京都で暮らしている兄の家に寄って帰国の挨拶をすると、会社がとってくれた神戸のポートピアホテル移動した。>

「日本のほうがいい」
「そうか日本の方がやっぱりいいか」
「ダラスなんかほんとにおもちゃみたい………金属板のキラキラした壁で、色も白か黄かでしょ。それに馬鹿でかいでしょ。道も砂漠も単調にはしる一本道だし。陰影がない。ちっともデリケートじゃないんだもの」
「神戸は日本でも、特別だよ」
「そうよね」
「あれほど日本はイヤイヤいってたくせして、やっぱりいいか」
「ここにこうして眺めてるといいわねェ」
  老後をアメリカで送るべきか、日本で送るべきか。誰もがこの頃になって話す話題ではあった。アメリカ国籍を持ち、アメリカ国のために一生懸命働いたあと、老いがやってくる。その時、日本に生まれたアメリカ国籍の日本人一世たちが、一度は悩んでつき当たる問題だった。じつは、こんどの旅行でも芦田夫妻は、無言の胸中にそのいずれかの選択を決定せねばならぬ年齢にきていた。

『凩(こがらし)』宮大工倉持清右衛門の記にみる故郷        昭和45年7月~46年4月 小説新潮連載

  死と静かに対峙する老人たちの物語である。主人公は一男一女をもうけるが、長男は建築現場で墜落死、妻には先立たれ、長女は京都でインテリアデザイナーと同棲。朽木谷の村にひとり暮らす老宮大工の倉持清右衛門。
  この作中には様々な老いの形が出てくるが、不幸な死に方のひとつとして、娘に請われて都会のアパート暮らし中に知り合った老婆きんの死をだす。きんは心教学会という、題目を唱える新興宗教団体の信者であるが、嫁との折り合いが悪く自殺してしまう。葬儀は入信していなかった身内をしめだし、学会員だけで行う。
  この物語は、晩年に自分だけの離れを建てて住んだ水上勉の宮大工だった父親にヒントを得て書かれたものと思われる。主人公の清右衛門も娘に呼ばれて暮らしていた京都を引き揚げ、先祖代々が暮らしてきた朽木谷の静平(しずひら)の地に戻り、自分用のお堂を建てるのだった。

 ・・・・ 略 ・・・・いつまでも、陽あたりのわるい村にいると、神経痛は長びく一方だし、それにどうせ、こっちの送金で暮らすなら、二重生活は不経済であるともいうのだ。いっそ、村の土地一切売って、京へ出て自分たちと一しょに暮らせばいいだろう。これはしかし、かすかに嬉しい気もするが、………めぐみも少し虫がよすぎる。
「お父ちゃんは、うちの親孝行しようと思う気持ちがわからんねや。うちはなーんも、この家を売って、そのお金を、好きなことにつかういうてんのやないのんえ。うちは、お父ちゃんを、京へよんで、楽させてあげたいために、いうてんのやさかいな」
  京へゆけば、毎日、アパートでぶらぶらしていてもよい。芝居をみていてもよい。テレビにかじりついていてもよい。散歩がしたければ、杖をついて、そこらじゅうを歩けばいいと、娘は暢気(のんき)なことをいってくれるのだ。心根のやさしいことばを投げる。
  だが、どうしても、清右衛門はそれについてゆけない。昨夜も断固として、家屋敷を売るのに反対したのだ。
「わしは、ここで死ぬ。ここで死にたいのや。ここはわしの死に場所やし、おまえのおっ母んも兄の清も眠っとる墓のある村や」

「禅宗、………それはあきへんな」
  きんは語気つよくいった。
「いまの禅宗の坊さんの中で、ほんまの修行しやはる人はおへん。本来無一物、何もいらん、ただ坐禅を組んでおればよいという宗旨でありながら、ゼニのほしい坊さんばかりやおへんかいな。どの寺も、嫁さんもろて、子をうんで、真宗の寺とちいともかわらんやおへんか………禅宗の坊さんはあきまへん」
  清右衛門はそういわれて、似たようなことをむかし達之(娘めぐみの同棲者)がいって、禅宗をけなしたことを思いだしたが、いわれるとおり、修行にいそしむ禅宗坊主の姿をみたことはないと思った。本山へよくいくこともあるが、いまは僧堂には雲水はいない。かりにそこに僧堂はあっても、会社の錬成道場に貸したりしている。早い話が、万願寺の和尚をみても、いつも、赤い腰巻きをちらつかせる嬶がいた。なるほどあれではこの世に「無」を悟る世界とは程遠いかもしれぬ。きんが、心教学会のこととなると一応の道理を述べるのに清右衛門は感心もしたが、しかし、禅寺の普請に力をつくしてきた自分にとっては、あの冷たい禅宗特有の伽藍と寒い庭の景色は、どの宗教よりも、心が洗われる。心の道場だと思う気持にかわりはないのだった。

「な、なんで………あの人が首をつらなならんねや………あの人が、なんぞ、かなしいことがあったんかいな」
「理由ははっきりしません。けど、新聞では厭世やとしかかいてありませんでしたわ。大阪の息子さんの嫁さんと、また喧嘩しやはりましたんや。時どき、大阪へいっては、意見のあわん嫁さんと喧嘩してはりましたさかいな」
 清右衛門は、そんな事情があったのか、と、ふときんさんの自殺の原因がのみこめた気がした。ひと月程前、朽木の文蔵が、ひょっこり訪ねてきて、上りはなで昔話をして帰った際、豆の煮たのを鉢に入れてもってきて、どこやら、淋しいそうな顔ですぐに部屋に入りこんだきんの姿の淋しさが思いだされた。心教学会へ入っても、嫁との喧嘩の解決がつかなかったか。 
<娘に誘われ暮らしていた京都のアパートをでた清右衛門は、村に帰り小さな家を建てて暮らす。その堂の竣工の祝いのシーン。物語はここで終わる。娘のめぐみは妊娠で大きなお腹をかかえて出席していた。>

 九月九日。まだ残暑がきびしい一日のことだったが、午後二時から、この堂にささやかな竣工式の集まりが催された。
 ・・・・ 略 ・・・・清右衛門は音痴ながら、おっ母のうとうてくれた子守歌が思いだされてならぬ、久しぶりうとうてみると前置きし、少し下腹の目だちはじめためぐみが、眼をうるませて達之のそばで聞き惚れるのへ、ときどき眼をやりつつつぎのようにうたった。

  げんげの花よ、なぜ泣くぞ、なぜ泣くぞ、
  親ないか、子ォないか、
  親はあれども雁よ。
  かかは川原でなにを摘み、ととは丹後の金掘りに、
  げんげの花よ、二つ寝りゃ、八つ九つはや十がくる。

  げんげの花よ、なぜ泣くぞ、なぜ泣くぞ、
  親ないか、子ォないか、
  親はあれども雁よ。
  かかは添い寝で乳まくら、ととは高木でうるしとる、
  げんげの花よ、二つ寝りゃ、八つ九つはや十がくる。

『故郷』にみる故郷       昭和62年7月9日~63年6月28日まで12地方紙に連載 平成4年(1997) 集英社 刊

  アメリカの日本料理店に派遣されて成功をおさめた芦田夫妻は、三十年ぶりに里帰り。老後をふるさと若狭で暮らしたいと考え、仕事の合間に訪れる。だが、美しかったふる里は、原発銀座へと変容し、過疎化の問題も抱えていた。大自然につつまれて安らかに逝きたいと願う夫婦が、ふるさととの再会で見たものは………。物語は、アメリカ人と結婚して渡米、いまは離婚して日本に帰って暮らす母を訪ねて来日したハーフの娘のドラマと平行しながら、それぞれの故郷を語っていく。

  この書面は貴村の区長さんか、もしくは、駐在所長さんに届きますことを祈りながら書いています。書面を持参する女性は、ニューヨーク州キャッツキル在住のキャシー・マクレインさんです。このたび貴村ご出身のお母様の里を訪ねる目的でアメリカからこられました。キャシーさんは、ミチコ・マクレインというお名前です。いまはニューヨークで活躍しておられる家具デザイナーです。お母さんは、マツミヤハツエさんで、貴村を出て、アメリカで結婚され、キャシーさんのお父さんと十二年前まで同居しておられたようですが、離婚後行方を絶たれました。ミチコ。・マクレインは、お母さんが日本へ帰っているかもしれないとの判断から、このたび、貴村を訪ねる旅行を思い付かれたようです。
  私は芦田富美子と申します。キャシーさんとは、縁故はありません。実は、アンカレッジ発のJAL機上でとなりあわせた縁でございます。いろいろ話をしているうちに、キャシーさんの右の事情がわかりました。それで話を聞いて福井県下の貴村へゆかれても、心もとない思いがしたものですから、何とかして、貴村へお連れしてお世話申し上げたいと思いましたが、私も夫の里である京都で、明日おこなわれる仏事に出席せねばなりません。それで京都まではご一緒できたのですけれど、キャシーさん一人を貴地へ送ることになり、心配でしたので地図その他は、出来るだけくわしく教え、市内のホテルで別れました。キャシーさんは貴村のほかに身寄りはございませんので、私ども連絡先を教えておきました。どうか事情をお汲みとりくださって、彼女がお母様のご実家にたどり着けますよう、助けてあげてください。事情によりましては実家の都合で宿泊も不可能なこともございましょうから、その時は、近くのビジネスホテルを紹介してあげてください。キャシーさんとは電話で連絡をとることになっています。

『しがらき物語』にみる故郷                                      昭和39年 新潮社 刊

式場病院→

矢切駅
  

  若狭の若いお父さんたちが信州の私のところに来て、一滴文庫を下さいと言ってくれた。
NPOを作って活動していくという、NPOの出現は夢ではないかと思った。
子供の頃見た竹人形劇が忘れられないと言ってくれた。そんなことならどうぞ好きに使いなさいと答えた。
若狭の若いお父さんたちがNPO法人《一滴の里》をこさえて私の想いを引き継いでくれた。・・・
                                           
「一滴文庫」ホームページより

旧射撃場のあった窪地

水上 勉氏は、北御牧村の人々に好んでこの色紙を贈った。

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  孝二は黙った。神戸でも、語りあった問題だった。死ぬときは、アメリカがいいか、日本がいいか。そのことを、このたびの旅で決着をつけねばならなかった。
「木山さんの奥さんがね………やっぱり死ぬ時は日本へ帰って死にたいって………アパートメント・ハドソンのコンクリートの部屋で死ぬのはごめんだって………」
  富美子は、同じマンションに住む日本人夫婦のなかでも、わりに気心もあう木山さちの、最近はすっかり白髪のふえた初老顔を思いだしながらいった。
「あの方たちは、北海道出身だから、けしきもアメリカの農村に似ているところがあるらしいの。アメリカは馴染めるいってらしたけど、やっぱり、死ぬときはと考えると、北海道がなつかしいとおっしゃるのよね」
「生まれたところへ帰るというのが人間の死だ」

「檜谷は、先祖が住んでおった土地やで、ねきに畑も田も多少はある。あの谷へ、昔どおりの家を建てて、わしは、もどって畑つくって死ぬつもりや」
  文蔵はぐっと息をつまらせて清右衛門の眼をみつめた。そして、しばらく眼を閉じていたが、
「それでわかったわ………あんたが、あの古屋敷を土地会社に売った理由が………わしは、また、貞之助さんのいうことをきいて、あんたは、もう、あの土地を捨てて、京のラク隠居になってしもたとばかり思うとった」
「ラク隠居やない。京へきたのは足をなおすためや。文蔵さん。都会は年寄りの住むとこやない、街は、年寄りを殺すとこや………車がいっぱいで、町歩きもできん」
 清右衛門は、吐き捨てるようにいった。

解 説

  水上勉氏は福井県大飯郡本郷町の大工の家に生まれた。9歳と半年ほどで京都の寺の小僧にだされ、戦争をはさんで疎開していた実家から東京に出奔。様々な職業を経ながら文学への夢を捨てがたく矢切にやって来た。当時は洋服の行商をしながら糊口をしのいでいた。
  このときに勧められて書いた推理小説の『箱の中』が『霧と影』と題名を改められて河出書房から出版され、小説家としてデビューする。矢切はその意味で小説家・水上勉氏の誕生の地だ。

水上 勉と矢切
  ・・・略・・・ また借家さがしをはじめた。千葉県の松戸に一軒家があいている、という情報があった。
  さっそく見にいった。そこは下矢切といい、市川との境である。国府台の式場病院の裏にあたる高台だったが、一帯はまだ畑で、結核療養所と警察の射撃場にはさまれていた。
  目あての家は、射撃場の上にある。六畳、四畳半に台所のついた恰好の広さで月六千円という家賃も魅力だった。あたりの田園風景に魅かれて、私は借りることにした。持ち主は台東区の未亡人で、隣家の大工が差配している。私の顔をみた大工は、即座に快諾してくれた。ふた月分ぐらいの敷き金だったかと思う。だがその金もすぐにはなかったので、加藤嘉氏に先付け小切手を書いて、現金を拝借した。
  家の南面に三十三平方メートルほどの庭があった。家主が丹精した植え込みもあった。大きなぶどうの木が一本あり、これが、夏だったので、ひくい軒を暗くするほど枝を這わせている。青い実も鈴生りだった。越した当座は庭に出て、草花をいじってばかりいた。
                     ・・・・・・・・ 略 ・・・・・・・
  ところで、この両家にはふろがなかった。弾丸よけもかねて、南面の庭の隅に共同ぶろをつくらぬかと申し込んできた。大工の家にうちの子よりは年下の女の子が二人いた。雨の降った日など、町のふろ屋へゆくのに、畑中道は泥んこになって子が嘆いていた。
  私が庭を提供し、ふろおけをうけもてば、大工が、小屋を建てて屋根をふくという。この約束は実行され、ひと月ほどで出来上がった。私が、自宅にふろをもったのは、これが最初のことである。若狭の生家にもふろがなかったから、生まれてはじめてのことだった。
                                      『冬日の道』(昭和45年3月25日発行 中央公論社)より

信楽の山の中でひっそりと暮らしひっそりとその一生を終えた陶工の弥八。
周囲の人たちから変わり者と揶揄されながら名作を生み出し続ける弥八の師匠・平右衛門。
平右衛門のところでヒデシとして働くお紺。養子にきた少女・小夜。
誰ひとりとして血の継っている者がいないのに、この4人が同じ屋根の下で懸命に生きる姿は心に響く。
その生活は決して派手ではないが、日常の粛々と生きる様子を信楽の山の四季を交えながら美しく描いている。


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