現在、私が住んでいる台地から矢切の渡しとビルの林立する東京方面を見たところです。白い帯状に見える2本のあいだが江戸川です。東京の向こうに見えるのは丹沢から秩父にかけての山並みです。(2012年1月24日 午前7時30分)

藤原 嗣治    メール

1946年 岡山県新見市千屋(ちや)生まれ。
職業:フォトジャーナリスト
    
     昭和30年代のはじめまで、千屋地区では家や田圃
    や畑は、すべて “かべ” と呼ばれる柵の中にありまし
    た。牛を飼育するためでした。冬の間は囲炉裏のある
    居間と隣接した厩(まや)で飼育し、春から秋にかけて
    牛たちは山に放牧されました。
     放牧された牛たちが山から下りてきて田や畑を荒さ
    ないように設けたの“かべ”です。学校の行き帰り、私
    たちは、“かべ” の一郭に設けられた木戸を開け閉め
    するのが面倒で、よく乗り越えて出入りをしたものです。
     戦後すぐ、昭和20年に鳩山一郎内閣は「新生活運動」
    を提唱します。婦人会や青年団を中心に運動はまたた
    くまに全国に広がり、私の生まれた村にもやってきまし 
    た。まず最初に運動の洗礼を受けたのは“かべ”の撤
    去でした。どうじに囲い込まれていた人が解放され、牛
    たちは放牧場の柵の中に囲い込まれました。
     余談ですが、脂身と肉とがはっきりと分かれていたス
    テーキを食べることができていた時代は、そのころまで
    で、やがて、牛肉を食べたときの第一声が「やわらか〜
    い」 時代へと突入していきます。私たちが子どものころ
    に、生きていた牛はもういません。筋肉に脂肪がめり込
    んで、人間だったら即入院のような牛ばかり。
     ついで台所革命でした。古い習慣や因習の打破など
    新生活運動の波は次々と襲い来て、村を一変させまし
    た。“かべ”が取り払われると、若者たちは村の外に新
    世界を求めて出ていきました。過疎化の始まりでした。
    そしていま、学者先生が造った限界集落などという嬉し
    くないレッテルを貼られても抗議する気力すらなく暮らし
    ています。どこやらの国ではないが、帰農運動でもしな
    いといけません。……エッ! もうやってる?
     こうしてホームページを開設するにあたり、半世紀近
    く振り返ってみると、期せずして鳩山から始まり、まだ終
    わったわけではありませんが、鳩山でひとつの時代の終
    わりを迎えようとしているように思われます。
     とはいえ、そう悲観的に考えず、次の時代の始まりと
    とらえれば、世の中はまだ希望も明かりもあるのだと
    信じたいものです。 

昭和30年ごろ,牛が通ると
子どもたちはかべに登っ
て避難した。

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私の生まれた村

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大正時代の牛市
(写真提供:田枝治義氏)

昭和30年代の遠足
(撮影:藤原嗣治)

昭和30年ごろの千屋

昭和30年代の千屋中学校

人が去って木が残った

大人になったら家が建つよと、いう言葉を信じて植えたが、家はまだ建たない。これからも、たぶん建たない。山が死んでしまったからだ。