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  昭和35年ごろ、新聞に掲載された写真です。村にバスが通うようになって、牛が邪魔だという声がバス会社などからあがるようになりました。
  千屋という地区は、江戸時代なかごろ、太田道灌の末裔だといわれる人がやってきて砂鉄産業を興しました。砂鉄を溶かして鉄の塊にするための燃料として大量の炭を必要としました。その炭を運んだのが牛。鉄の塊を運んだのも牛でした。
  太田家では住民たちに牛飼いを奨励しました。荷物を運ぶだけではなく、牛厩(うしまや)に敷いていた枯れ草などは、堆肥として稲作りの際の肥料となり、田んぼを耕すときの耕作機械の役目までもしました。さらに、太田家では人々に現金収入を得させるために自費を投じて牛市を開設し、全国から多くの博労(ばくろう)を呼び込みます。
  牛市には遠く岩手県などからも博労たちが泊まりがけでやって来ていました。現金をもたらしてくれる牛は、とても大切にされました。そのことを物語るエピソードとして、伯備線敷設反対運動があります。大正時代の終わりごろのことです。岡山から倉敷を通って鳥取県の米子市に抜ける線路を敷く際、最短距離は千屋を通るルートだといわれていましたが、「牛が轢かれる」あるいは「牛が子を産まなくなる」などと、地区民に猛反対され、ルート変更を余儀なくされたそうです。
  千屋牛の特徴は、女子どもでも手綱一本で自由自在に扱えるという従順さです。その特徴をアピールするために考案されたのが碁盤乗りです。ヒントは川向こうの田んぼに行くために丸木橋を渡る姿でした。以前は碁盤乗りのほかにも、平均台渡りなどもしていました。現在では新見高等学校の学生たちが伝統を守って碁盤乗りを行っています。
  多産で従順な千屋牛をつくりだしたのは、竹谷(たけんたに)地区の難波千代平でした。千代平のつくりだした種牛は、繁殖牛として代々その系統が大切に守られてきました。これを「竹谷蔓(たけんたにつる)」といいます。
 蔓牛に関しては、いずれふれるときがあると思いますので、その際に詳しく述べたいと思います。ひとつだけいえることは、かつての千屋牛は、人間が食べるためのものではありませんでした。いまのように、若い女の子のレポーターが、「やわらか〜い!」といって食べている肉とは違い、赤身肉と脂肪とがはっきりと分かれた肉でした。つまり、「やわらかくない」健康的な肉です。